サクラと日本人
NHK教育TV「歴史は眠らない」で放送された。ウェールズ系日本人の作家C.W.ニコルが案内役だ。いろんな国を知っている人ほど日本の伝統や文化、歴史を鋭く観察する感性を持っている例は少なくない。C.W.ニコルさんもその典型で、一般の日本人が見過ごしてしまうことに光を当て的確に表現してくれる。森の生活を愛し、自然環境保護の活動家としても名高い。
閑貞桜
黒姫山の麓に広がる信濃町。C.W.ニコルさんはこの町に暮らして30年になる。そこに彼がひときわ思いを寄せる一本の桜の木がある。地元で古くから親しまれている樹齢500年のシダレザクラ「閑貞桜」だ。
「僕が最初に黒い姫に来たとき、花見でここに案内してもらった。なんて美しい古い木だと思いました。何百年もいろんな伝統があって、ずっと生きてきた。僕はこの木と同じ惑星に立っていることを、大きな誇りに思っています。感謝を感じています。」
20年ほど前、この桜が病気で衰え今にも枯れそうになった。ニコルさんは樹木医を招いて治療を行った結果、桜は生きながらえることができた。
「22歳のとき、東京オリンピックの2年前に始めて日本に来た。本当に日本は元気でしたね。高度成長はすばらしい時期だったけど、途中で何かを失い始めたんじゃないか。その象徴が桜だ、桜です!」
桜博士
明治から昭和、国花としてもてはやされた桜。しかし、終戦から高度成長期にかけて桜は日本人の心は桜から離れていった。戦後の混乱期、上野を初め東京のいたるところで、桜の木は薪にするために伐採された。そして高度成長期、各地で道路建設や宅地造成などに伴い、多くの桜が姿を消していった。
そうした桜の惨状を歯がゆい思いで見ていたのが、笹部新太郎だった。大阪造幣局の「桜の通りぬけ」など各地の桜の保護に尽力し、桜博士と呼ばれた人物だ。彼は手記の中で東寺の桜をめぐる状況をこう述べている。
「戦争で忘れられることがっても、桜はいつも平和の回復とともに思い返されるのだが、今になってもただ滅びるがままにほってある」 (櫻男行状より)
1960年、櫻の行く末を案じていた73歳の笹部のもとに、一本の桜を救って欲しいという依頼が飛び込んだ。当時建設予定の御母衣ダムの湖底に沈む運命にあった荘川村の桜である。光輪寺境内にあったエドヒガンザクラ、村人たちにとって特別な思いのある木だった。
樹齢400年の桜
ダム建設が決定したとき、国家公益事業の犠牲者になって立ち退きを余儀なくされる250戸1200人の村人たちに何かを残したいという思いをもっていた人物がいた。電源開発の前総裁(当時)、高碕達之助だ。選んだのがエドヒガンザクラだった。彼は桜博士の異名をもつ笹部に、この桜を高台に移植して欲しいと頼んだ。
しかし、樹齢400年の老木の移植は前代未聞。不可能に近い難事業だったが、笹部は引き受けた。「これに失敗したら今後もう桜を語るまい」・・・。彼には、桜が育んできた豊かな文化を省みなくなった時代の風潮に対して強い危機感があった。そうした想いが笹部の決断を後押しした。
桜は高さ30メートル、重さ40トン。あまりの巨大さから大型クレーン車でも持ち上げることができなかった。重量を軽くするためには、止むなく枝を切り落とさざるを得なかったという。小枝を切るとそこから枯れていくというデリケートな桜の移植に挑戦した。村の人たちは桜が蘇るとは誰も信じなかった。枝など切り落とさずにダム湖で静かに成仏させてやったほうが良かったといった。
移植から一年半経った1962年春、笹部が待ちに待ったことが起きた。桜が花を咲かせたのだった。6月、その桜の下でダムに沈んだ村をしのぶ式典が開かれた。ほかの土地へ散りじりになっていた500人の村人たちが集まった。
「誰も彼もみな、このわずかに生き残った
桜の幹を手でなでて、声をあげて泣いていた」 (櫻男行状より)
生き残った荘川桜
新しい生活のために一度は桜をあきらめた村人たち・・・。しかし、生きながらえた桜を前にして再びかけがえのないふるさとの思い出が蘇ったのである。その桜は「荘川桜」と名づけられ、今もダムに沈んだ村を見つめ続けている。荘川桜が満開の花をつけるようになったのは移植から10年後のこと。それ以来、村人たちは毎年この桜の木の下に集いふるさとを偲ぶようになった。
移植から50年、樹齢450年の桜は高度成長の犠牲となった村の生き証人である。
ニコルさんは語る。
「戦後、日本人は経済の復興ばかりに目が向いていました。荘川村の人たちは経済発展の犠牲になりふるさとを失いました。長年の歴史、おそらく何千年の歴史、そしていろんな家とか神社とか学校とか、日本の歴史の大事な一部がこのダム湖の犠牲になりました。しかし、笹部先生と周りの人々の濃い愛情、情熱で、今もその桜の木が残っています。桜の木が生き残って、我々に失ったものを語っているんじゃないですかね。」
荘川桜は、日本人が桜への愛着を再び取り戻すきっかけになった。以後、日本各地で桜の景観を保護しようという機運が高まった。
「桜の国」の復興
1964年、「日本さくらの会」が発足し、全国の学校や公園にさくらの苗木を配布し植樹運動を展開した。その数は300万本にのぼった。こうした活動により、戦後経済発展の犠牲になっていた桜の景観が各地で蘇ってきた。日本は再び「桜の国」となった。
「経済や効率だけが優先される時代の中でも、日本人には桜への強い愛着があるんだと改めて感じました。桜は日本人にとって大切な文化です。心のふるさとです。古来から日本人が桜の下で生み出してきた豊かな文化をどうやって残していけばいいのか。この美しい花の時期に、皆さんにじっくり思いを巡らせてもらいたいと思います。」
【参考サイト】
孤独に亡くなり誰にも引き取られない
警察でも自治体でも身元が掴めなかった無縁死の人を、「行旅死亡人」と呼んでいる。
小林さんは給食センターを退職後も日雇いの派遣労働を続け、亡くなる直前まで両親の供養料をふるさとの寺へ送り続けていた。東京の無縁墓地に埋葬された小林さん・・・ふるさとに戻ることはできなかった。
3万2千人の無縁死・・・そのほとんどが、家族がいるのに引き取られないケースだと分かった。いま無縁死の現場でかつてない新たなビジネスが生まれている。「特殊清掃業者」・・・自治体からの依頼で、家族に代わって遺品を整理する専門業者である。ある無縁死の部屋には、息子が引き取らなかった両親の遺骨が残されていた。業者は宅配便でこうした遺骨を引き受ける寺へ送っていた。遺骨が届いていたのは富山県にある寺、高岡の大法寺だった。2008年から行き場のない遺骨の引取りを始めた。都市部から届く遺骨が多いという。
市役所が最初に連絡を取った叔父は常山さんとは疎遠になっていた。それでも供養しようと戒名を取ったが、名前が違うため同じ墓に埋葬することはできなかった。病院の献体への承諾書には常山さんの兄が署名していた。兄はこう話した。
高野さんは一人孤独に死にたくないと有料老人ホームで暮らしている。50代で熟年離婚。ここへ来たのは定年退職してすぐのことだった。頼れる家族もいない暮らし。高野さんは高校卒業後、大手都市銀行に入った。会社中心の42年間の生活。ほとんどが仕事で築いた人間関係だった。仕事で無理を重ねた結果、40歳で体を壊した。糖尿病で1日3食、厳しく栄養管理している。仕事のストレスからうつ病にもなった。
NPOの合同墓地を生前契約する人たちが増えている。その中で最近目立ち始めたのは独身のまま一生を過ごす「生涯未婚」という人たちである。その一人、若山さんも合同墓地を生前契約した。40歳のときマンションを購入し、以来一人暮らしである。父親を早くに亡くした若山さんは看護師の仕事をしながら家族を支えた。母親の介護と仕事に追われ結婚する余裕がなかった。
亡くなっていた舘さん(享年57歳)・・・密室のアパートで死後1ヶ月、発見されなかった。留守番電話に残された姉のめっせーじ姉は弟の死を知らず、電話をかけ続けていた。舘さんは、30代半ばで職を失い、その後派遣会社を転々としていた。収入が安定せず結婚することがなかった。
無縁社会の広がりをどうすれば食い止められるのか?
続きを読む≫ "だるま小屋"