何十年ぶりだろうか?元旦に初詣に行った。大晦日の夜は寝ないで神様をお迎えするのが習わしである。その足で神社に参拝しお屠蘇をいただく。郷里では近くの氏神を祀った神社に行く。アルコールに弱い私は一杯のお屠蘇だけでほろ酔い加減になったものだ(^_^)
元旦は「朝まで生放送」を見て、それが終わってから初詣に出かけた。写真は途中で見た初日の出である。山の端から登る日の出のため、時刻は7時半になっていた。
実をいえば、私に欠けているのは、私は何をなすべきかということについて私自身に決心がつかないでいることなのだ。それは私が何を認識すべきかというこ とではない。どんな行為にも認識が先立つことは、置いておいて、私の使命が何であるかを知ることが問題なのだ。神はまことに何を私がなすべきであると欲し たもうのか。これを知ることが重要なのだ。私にとっての真理であるような真理(=主体的真理)を発見し、私がそのために生き、そしてそのために死にたいと 思うような、イデー(=理想的、価値的なるもの)を発見することが必要なのだ。いわゆる、体系的な学者の言う、客観的真理などをさがし出してみたところ で、それが私の何の役に立つだろうか。
(1835年8月1日の「日記」より抜粋)
| Stylish Japanese Gals in Shibuya | Attention! Coming Through! |
|
|
|
我が母校である。今井町の町並みを歩いた足で立ち寄った。最初の米国駐在を終えた頃、郷里に帰ったときに母校を訪問した記憶がある。その後また海外駐在になったため、母校を訪ねることもなかった。20年ぶりということだ。
正門や校舎の風情は昔と変わっていなかった。文化創造館や新体育館などがあっても、創立当初からの校舎の威厳の影に隠れてしまう。
文化祭の準備をしていた若者たちに会う。明るく笑顔で挨拶をしてくる後輩たちをうれしく思った。十数人の若者と話したが、全員が笑顔で真っ先に「こんにちは!」と声をかけてくれた。家庭の躾けだけでなく学校教育が行き届いているのだと思った。首都圏の高校では経験したことがない清々しさだった。
踊りの練習の合間にカメラを向けると、一斉にカメラのほうを向いて笑顔で撮られる態勢をとる。写真に写ることを楽しんでいる。こちらがカメラを構えようとすると即座に反応して、地面に転がったり、近くの木に片手をついたりしてポーズをとる若者がいた。
最初は何をしているのか分からなかったが、ほかの若者も集まってきてポーズをとる。微笑ましい風景だった。私とはまったくの初対面だ。文化祭の練習風景を取材しているカメラマンとでも勘違いしたのだろうか?お互い余計な詮索はない、一期一会の出会いだった。
写真を掲載するサイトのURLとパスワードを教えておいた。オリジナルの写真を閲覧するためにはパスワードが必要だ。 個人を特定できないように修正した写真はGallery2に公開した。
私
が入社したのは1969年4月1日。新人教育、工場実習、そしてSE教育を受けたあと配属された職場が、情報処理営業本部システム部第一システム課だった
と記憶する。当時のNK部長、NY課長配下にいくつかの班があった。私はIK班に所属し、直属の上司がSAさん、HYさんだった。諸先輩から教えられたこ
とはたくさんあり、新米の社会人として進むべき道を示していただいた。この件についてはOB会ホームページに書く。
丸の内の焼き芋
社会人として最初の勤務場所は丸の内仲通りに面したオフィスビルの8階だった。先日、「1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶」で知ったのだが、入社する8年前には丸の内に焼きいもを売りにくる人がいた。
邯鄲の夢は、唐の玄宗の時代に書かれた沈既済の小説「枕中記」の話だが、明の時代の「実録 邯鄲記」では、主人公の盧生は僻地に流されてしまう。彼の妻も
錦織りに落ちぶれる。夫を助けたい一心で妻は皇帝の目に触れるように詩(菩薩蛮)を錦に織り込んだ。それが回文になっている。
梅題遠色春帰得 明河望断啼情夕
遅郷瘴嶺過愁客 当官錦織催還急
孤影雁回斜 織室錦抛残
峯寒逼翠紗 窗紗翠逼寒
窗残抛錦室 峯斜回雁影
織急還催織 孤客愁過嶺
錦官当夕情 瘴郷遅得帰
啼断望河明 春色遠題梅
梅の花は春をもたらしてくれたが
あの人はいま追放された身となり さすらいの旅をしている
雁がさびしく徘徊しており 峯が寒々と翠の薄布に影を落としている
自分は錦織の部屋に囚われて 急げ急げと催促されている
今宵 錦織の部屋から思いを馳せて 河にあけぼのがたつまで泣き続ける
菩薩蛮は一韻が同じ文字数の偶数句で成り立っているために、対称性を生みやすいそうだ。
「双憶」という回文形式の詩が有名だ。旅先で残してきた妻子を想う詩が、逆さまにに読むと旅先の夫を想う妻の気持ちを歌った詩になる。
もっとすごいのは、列女伝・竇滔妻蘇氏に出てくる「迴文旋圖詩」にある「[王旋][王幾]図」(せんきず)だ。841字からなる回文で、縦横・斜め・四角・螺旋に回文がある。通説では、7958種の詩が読み取れるという。
※[王旋][王幾]とは、天体観測機のこと。せんきずは、天空に輝く星座にも、曼荼羅のようにも見える。
長き夜の なかきよの
とをの眠りの とをのねふりの
皆目覚め みなめさめ
浪乗り船の なみのりふねの
音のよき哉 おとのよきかな
江戸時代ではお正月に七福神の絵とともに配られていたもので、この詩を三回読んで絵を枕元に置いて寝るといい初夢が見れるといわれていた。
ウォールストリートジャーナルでもその人気振りをレポートした、ファンサイトもいくつか開設された。最初に開設されたのがMagnify.net社がホストの http://www.susan-boyle.com/ である。三日後には46万アクセスの人気サイトになった。
Britains Got Talent 2009が放映されたその日に録画ビデオがYouTubeに投稿されたが、一週間で1000万回、三週間後には5000万回を超えるアクセスがあった。歌はレ・ミゼラブルから I dreamed a dream で、まさに夢に見たことが現実になった。
http://www.youtube.com/watch?v=9...
あのポールポッツを超えんばかりの人気だ。二年前に投稿されたポールの動画再生回数が5000万回だから、YouTubeが普及した違いはあるが、いかにSusan Boyleに人気が沸騰しているかが分かる。
スコットランドの片田舎に住む、普通の47歳のおばさん(おそらくケルト系)だが、その歌声は国境を越えて人々の胸に響く。47歳にして、過去に結婚したこともキスさえしたこともないというSusanだが、その飾らない人柄が行為を持って迎えられていることは間違いない。もちろん、その歌声の美しさに誰もが感動する。
Susan Boyle - Cry Me A River の歌もすばらしい。これは投稿者によれば、1999年にレコーディングされたというが真偽の判断はつかない。
自宅にいて家人がいないときは食事が面倒で、食事の時間が不規則になる。空腹に耐えられなく なると、かんたんな料理をすることもあるが、たいていはコンビニのお世話になる。24時間営業のコンビニは、その名のとおり便利である。そう思うのは都会 に住む人々のライフスタイルが影響している。地方に行くと、お店は夜7時前には閉まり、近くにコンビニもないところが多い。私の実家がある田舎町も同じである。コンビニを必要としないライフスタイルの人が多いから、それを不便だとは感じない。
いま政府の諮問機関で、コンビニの深夜営業の是非をめぐって議論をしている。その背景にはエコライフもあるが、防犯対策も争点となっている。賛成派は、犯罪を誘発したり、若者の溜まり場になるから深夜営業は自粛したほうが良いという。
自粛反対派は、コンビニは深夜の駆け込み寺の役割を果たしたり、災害時の食料や水の供給ができるからという。痴漢に襲われたり誰かにつけられているといっ
て、コンビニに駆け込んでくる件数が年間1万3千件あるという。その40%あまりが深夜の時間帯だそうだ。だから、深夜にコンビニが開いていないとかえっ
て治安の悪化に結びつくのではないかという意見である。さらに、多くの自治体では地域のコンビニと協力して、災害時に被災者におにぎりを配る、トイレや水
を提供するといった役割が期待されている。コンビニが24時間営業だから災害対応が可能なのだという。
賛否両論があって、双方の歩み寄りが困難な状況にある。コンビニの深夜営業の是非だけを議論すると、どちらの意見ももっともだと思えるからだろう。そもそもなぜコンビニが必要なのかという視点での議論もある。
都会人の働き方も生活もどんどん深夜化し、単身世帯も増え、便利さを求めるライフスタイルが定着したから、コンビニの深夜営業も増えたということだ ろう。とすれば、現代人の働き方も含めた社会全体のライフスタイルをどういう方向に持っていくかという政策論議をしないといけないのではないか。
個人的には、便利さに慣れてしまった都会人としての自分のライフスタイルをどうするかということだ。山小屋にこもって晴耕雨読の生活をすることが自分の理想なのか?
今朝、悲しく辛い知らせを受け取った。同期の友人が不慮の事故で亡くなった。このSNSのメンバーでもあり、ミクシーのメンバーでもあった。
友人は10年ほど前に大病を患い、そのときの薬害で聴力を失った。6年前に早期退職し、生まれ故郷に戻って、静かな安らぎの生活を送るようになった。時を同じくして私は日本に戻り、友人と同じように、私も田舎の生活がしたくて、早期退職をしようとしていた。
一年前に、彼が「人生の棚卸し」というメッセージをくれたのがきっかけで、私も人生の棚卸しに着手し、ブログも書いた。彼は、早期退職でそれまでの人間関係をほとんどすべて絶ち、実家に帰って母親と暮らすという生活環境の変化もあって、棚卸しができた・・・といっていた。私はまだ棚卸しさえできていない。
彼は、第二の人生の道を6年前に歩み始めた。聴覚障害を乗り越え、酒とタバコをたしなみ、パソコン好きでブログも定期的に書き、かつての駐在先であるドイツに一ヶ月滞在する旅にでかけるなどして、人生を楽しんでいた。
彼はこのSNSで書き込みをすることはなかったが、同期生たちに招待メールを送ったとき、その日のうちに参加した数少ない友人のひとりである。彼はブログとミクシーを楽しんでいた。私もときたま彼のブログを読むことを楽しみにしていた。私にも憶えのあるドイツ人との再会の話や、ドイツ滞在記、最近ではVistaパソコンを購入し移行に苦労した話など、関心ごとが共通することが多く、また彼の飾らない生き方に共感を覚えていた。
その彼が、いまはもう現実の世界にはいないのだと思うと、男泣きに涙が止まらなくなった。いい奴ほど先に旅立っていくんだ。その旅立ちに、別れを告げることはできない。
彼のブログは、「パソコンの移行完了!」で終わった。新しいパソコンで新たな発見を楽しみ、さぁこれからデジタルライフを楽しもうというときに、神は彼を旅立たせてしまった。聴覚障害を持つ人たちにとっては、パソコンとインターネットが大切な情報源である。ネットを通じて友人知人と親交を深め、新しい交友関係も生まれる。ネットなら、耳が聞こえなくても、常人と同じように会話ができる。彼にとっては生活の必需品であった。
もう彼がブログを書くことはない・・・と分かっていても、これまでと同じように一ヶ月、二ヶ月後に思い出したように彼のサイトを覗くと、また彼の想いを聞くことができると思ってしまう。リアルの世界だけでなく、仮想世界からも彼はいなくなってしまうのだ。彼の哀しさは言葉に表せない。
昨年8月31日、ダイアナ妃の十年目の命日に、彼はブログを書いた。そのなかで、彼は「この10年、私の人生も波乱万丈だった。」と回想している。そして、「これからどうなるのだろうか?今後の10年を私はどう生きていくのか、かなり大きなテーマである。いや、私に10年後があるのだろうか?」という文で結んでいる。
その7ヶ月後に旅立っていってしまった。
-------------------------------
貴君は多くの友人・知人の心の中に生きつづけています。パソコンの移行を完了して、さあこれから仲間と一緒にデジタルライフを楽しみましょう。我々と一緒に生きていくんです。だから、別れの言葉は無用です。インターネットの向こうでパソコンを楽しんでいる貴君の姿が目に浮かびます。
日本のバラを育成し、世界に紹介した人がいた。バラ園芸の勉強をしていくと必ず出会う「鈴木省三」(1913-2000)という人だ。生涯に108種の新種を創り出し、数々の国際コンクールで受賞した世界的に有名な人だと知った。紫雲、聖火、かがやき、芳純、乾杯、天の川・・・鈴木省三が作り出し命名した日本のバラだという。

バラといえば赤色だという先入観があるが、もちろんピンクや黄、白などもある。花フェスタ記念公園の資料では、平成16年3月31日現在、1603品種あるそうである。日本生まれのバラが178品種で、そのうち108種が鈴木省三が創ったというから、彼の果たした役割は群を抜いている。
数あるバラの品種のなかでも「光彩」というバラの美しさには目を瞠るものがある。オレンジ色のバラだが、滅多に見られない。Webで検索しても「オレンジ色のばら」は見つけられなかった。「光彩」だと書いてあるが、ブログによっては紅バラだと書いている。中心部分がわずかにオレンジに輝いているバラの写真もあったが、全体がオレンジに輝くバラはなかった。ほとんどが赤とか紅の色である。本物の「光彩」をみたい。

鈴木省三は、「光彩」を開発するために、70年代半ば頃2000万円の分光器を買って色彩の研究をしたそうである。13年尾歳月をかけて世界で始めて、オレンジ色のバラの栽培に成功したという。その「光彩」はアメリカでの国際コンクール(AARS)で優勝した。1988年のことである。ちなみにアメリカでは光彩ではなく「Mikado」と命名された。1940年以来、AARSで受賞した日本人は鈴木省三ただ一人だ。
もっとも日本の花はやっぱりサクラで、バラは西洋の花で、日本の家庭でもバラが栽培されるようになったのはこの数十年くらいの歴史しかない。薔薇の歴史によれば、ヨーロッパでバラの育種の歴史に大きく貢献したのがナポレオンの皇后ジェセフィーヌで、1829年のカタログには4000種を超える品種があったという。

何千種もあるバラの品種のなかで、青色だけは見たことがない。青色の元であるデルフィニジンという色素がバラにはないそうである。ところが昨年に開催された国立科学博物館・特別展「花 FLOWER〜太古の花から青いバラまで〜」で、青いバラが展示された。
日本人が好む花の色に青や紫があり、私も好きだ。アジサイ、ツユクサ、ハナショウブ、ヤグルマソウなどがある。科学的には、さまざまな色の中でもっとも複雑な仕組みで発現するのが青色だそうだ。青い色素はなく、アントシアニンという赤紫の色素が、淡黄色の成分や金属が複雑に作用して青色の花になるという。複雑な心情の日本人が好む暗黙の理由かもしれない。ともあれ、青い色の花の仕組みが解明されているのは、ツユクサとヤグルマギクだけだそうだ。この仕組みを解明したのは日本人で、花の色の研究は世界の中で日本が一歩リードしているということだ。
さきの特別展で紹介された青いバラは、バイオテクノロジーの成果である。サントリの研究所で、遺伝子組み換え技術を使い、14年の歳月を経て2004年に成功したという。販売は来年の予定だそうだ。
今朝は、職安の手続きをするために関内に行った。職探しという名目だが、サラリーマンに戻るつもりはない。ハローワーク(どうしてカタカナ英語なんでしょうね)の実態に関心があった。2.5x3センチの写真で、「上部の余白が少なすぎる」なんて馬鹿なことをいわないだろうな、あれが足りないこれがないとか重箱の隅を突っつかないだろうな・・・と思ったが、そういうことはなかった。来訪者も少なく、すぐ窓口で話ができた。休職手続きと保険給付手続きは20分くらいで終わったかな。思ったより早かった。
昨年に、ある銀行から電話がかかってきて、「振込み先の口座が間違っています。ついては口座に繰り戻しが必要で、印鑑と通帳と身分証明書を持参ください。手数料が840円かかります。」といった。しかも、その銀行の窓口まで出向かないといけなかった。面倒なことだった。一万円の振込みで、結局千数百円の手数料と貴重な時間を費やすことになった。アメリカだと電話一つで済む。ソーシャルセキュリティ番号や運転免許証番号、自宅住所、誕生日などを告げて身分証明をする必要があるが、それだけである。手数料も不要である。
過去のWEBコンテンンツを整理しようとつぶやいてから一年以上経っている。このブログを他のサイトに集約しようかなと思って見直していて気がついた。整理どころか、反対に10箇所くらい増えてしまい、さらに混乱してきた(苦笑) 主要なものは自営SNS、写真共有サイト、そして新規の自営ブログ三箇所である。ブログは公開だが、思いつくままに作成し、デザインや構成を変えたりして自己満足しているだけで、とくに知らせることはしていない。そのほうが気が楽だからである。
この記事は、10年前のPSP95ではなく、2007年現在の話である。
Vistaにバンドルされたソフトのひとつに、Windows フォトギャラリーがある。Picasaを真似たようなソフトだが、OS開発企業のアドバンテージを活かしている。たとえば、Windowsエクスプローラとの統合である。XPではフォルダー内のJPGファイルをクリックするとビューアーが開いたが、VistaではWindows フォトギャラリーが開く。開いた画像をその場で修正したり、印刷、電子メールしたり、ギャラリーに移動したりできる。XPに比較すると格段の進歩で、利便性が良くなった。Vistaで誉めてもいい機能はこれくらいかな(笑)
写真(画像)の編集・整理用のソフト、それも無料で使えるものがたくさんある。わたしはこれまで十数種類のソフトを使ったが、年を経るごとにいいものがリリースされてきた。プリンタやスキャナー、そしてデジカメを買うとかならず編集・印刷用のソフトがついている。わたしもNikon, Sony, Casio, Canon, Epsonのソフトを使った。もちろんパソコンにもたくさんの付属ソフトがあるし、Vectorや杜の窓を覗けば、フリーウェアがいっぱいある。また、グーグル博士に聞けば、たくさん(200万件!)教えてくれる。
武田鉄矢の「贈る言葉」のなかに、こんな一節がある。
『信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つくほうがいい』
無心なこどもの誘拐事件や、若い女性を狙った切り裂きジャックの連続殺人事件などがあった頃である。NY5番街を歩いていて、旅行者を装った通行人に声をかけられ、油断した隙に財布を掏られそうになったり、夜9時頃に暗い街路でホールドアップさせられたことなどもあった。
私は、神さまと自分が 対話する夢をみた「私と話がしたいんだって?」
神さまは口を開いた「お時間があるなら」
そう私は答えた神さまは微笑んで
「私には永遠の時間があるんだよ」
といわれた「どんな質問をしたいんだい」
「人間のどんなところに、
あなたは一番驚いていますか」
神さまは答えられた
夕食の後、何気なくテレビを見たら、「世界不思議発見!」が放送されていた。1872年に新橋ー横浜間に開通した鉄道の列車の中で禁止されていたこと、現在は禁止されていない「あること」とは何か?というクイズがあった。答えは、「おなら」である。おならをすると罰金5円と決められていたそうである。いまの貨幣価値に換算すると、なんと20万円だというから驚きである。
「なによりも大切な資産は人間関係だ」といった。私の場合を、10年前から振り返ってみたい。そのころは、通常の経営実務に加えて、20年前にはじめた提携を解消したり、10年前に作った会社を清算(M&A)したり、売却したベンチャ企業をNASDAQに上場させたり、米国空軍所属研究所にいた研究者を雇用してCIAや上院議員に調べられたり、訴訟を戦ったり・・・ビジネスの裏側の世界でも苦闘した。だれもやろうとはしないことではあったが、じつにさまざまな貴重な体験をする機会に恵まれたことは幸いだった。
人生の棚卸の失敗・・・を書いてから3週間が経った。先の日記で言及した「棚卸しの意味」、一ヶ月前に書いた記事をアップする。見直してからと思ったが、「規則正しい生活」をしていると、そのエネルギーがなくなる。考えに耽はじめると時間を忘れ、寝る時間が遅くなってしまう。規則正しい生活のリズムが乱れると講義に支障が出る・・・と言い訳をしておく(笑)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
朝6時起床。7時に家を出て、7時30分、目的地に到着。とある喫茶店で一杯のコーヒーを味わいながら、その日の段取りを考える。8時30分、教室に入る。その後は、休憩時間を除いてほとんど立ちっ放しで講義と演習をおこなう。17時30分終了。全受講生の日誌に目を通し、コメントする。疲れたからだを電車の揺れに任せて19時前に帰宅。一日の反省をして12時までに就寝・・・。
・・・ところが、新しい生活に入る計画は挫折した。諦めたわけではなかったが、そのときの早期退職は撤回した。当時高校生だった末娘が受験勉強中で、進学のときの調書に「父の職業=無職」と書くことに家族の感情的抵抗もあった。いわれるまで全く気づかなかった。あぁ、ここは日本だった!
もうひとつ勤務先の人材開発部からグローバルビジネスに携わる人たちを対象にした教材開発を頼まれていた。それを済ませてからにしようとおもった。また55歳に達すると企業の健康保険が退職後も加入継続できると聞き、それを待つという功利的な理由もあった。
ある友人がコミュニティで、「100万人のキャンドルナイトを紹介していた。今日は夏至・・・。世界で共通の日を選んで、5年l前に「でんきを消してスローな夜を」という呼びかけで始まったそうである。アメリカでは「LOHAS」が話題になっていたときである。その後、日本でも、「ロハス」という言葉は普及したが、ロハスな生活が定着しているとはいえないだろう。
辞職願を書いて、朝出かけるときに「今日提出するから・・・」と玄関先で妻に言った。その一年ほど前からは、家族にも退職する計画を話してきた。もちろんその後の家族の生活を支える金銭面・保険面での対策は講じて、その目処も立っていた。素人ながらFinancial Plannerの役割をみずから担って、生涯設計をした。
今日がボウリングの日になっていることを知った。日本最初のボウリング場は、文久元年(1861年)6月22日、オランダ人によって長崎に作られたそうである。
社団法人 日本ボウリング場協会
ボウリングWikipedia
ボウリング豆知識
ボウリングの日のウェブサイト6-22.jpもある。
私の反省
いま振り返ってみると、そういう生き方を知ったときは、もう40近くになっていたこともあるが、思ったようにはいかなかった。家族Family をもつというのは、結婚することではなく、子供を生み育てて幸せな家庭を作ることである。そのために生きる・・・ということだが、私の40代は仕事のために生きた・・・という大きな反省がある。
とくに40代後半は、二回目の海外駐在で、海外企業のリストラを含めた事業経営に携わり、月の半分は出張でホテル暮らしの生活が続いた。高校生になった長女と二人暮らしで、妻の中学生の子供二人は日本・・・という家族の生き別れ(!?)だった。とても家族のために生きたとはいえなかった。
そして、50代・・・。社会のために生きたとはいえない。前半は海外生活で、疲弊した利益のでない事業からの撤退やベンチャー資金を確保してMBO・売却したり、会社を清算したりといったリストラ(構造改革)の嵐のなかを走り、とても社会貢献などできる余裕はなかった。ささやかな寄付をするくらいで、社会のために生きるという意味すら分からず、怒涛のごとく時は過ぎた。
燃え尽き症候群
21世紀になって、嵐が収まる気配がでてきた。そして日本に軸足を移すようになった。このときも人生の大きな転機であったが、やはり「人生の棚卸」という意識はなく、そういえるようなことはしなかった。正直言って、Exhausted・・・気力・体力が枯渇したようで、職業人生で学びたいこともなくなった思いだった。20年前にシリコンバレーの仲間がよく言っていた「燃え尽き症候群」だったのかもしれない。
それもあるだろうが、日本に戻ったときに辞職、早期退職をする計画だった。それは、シリコンバレーの仲間たちの生きる姿勢を学んだからでもある。かれらの人生のタイムフレームからはずれてしまったが、むかしは人生50年と思っていたのが、人生70年と考えれば決して遅くはない・・・と思う。
20世紀末に八ヶ岳南麓に土地を買った。山小屋を建て、晴耕雨読の生活を夢見るようになった。それが私の口癖になった。日本に戻ってから週末には住宅展示場にでかけ、住林、デンマークハウス、積水ハス、三井ハウスなどに提案を依頼した。住林とは週一回の頻度で概念設計の打ち合わせをした。しかし、契約・発注の手前で急転した。それが5年半前のことである。
人生はキャリアだけではないことを学んだのは海外で知り合った仲間たちからであった。むかしブログにもどこかで書いたが、シリコンバレーでITや知識産業で働くひとたちは、むちゃくちゃに働く。セクレタリーやクラークなど日々の定常的な仕事もきちんとこなしていかなければ行かない人や工場のライン勤務の人は、9 to 5の規則的な生活をくりかえす。そういう人たちとは別にエグゼンプトエンプロイーと呼ばれる人のなかには、たとえば真夜中に目が覚めてふとアイデアや解決策を着想すると、オフィスにでかけて24時間寝食を忘れて没頭する人がいた。
その一方で、週末は誰かの家に集まって、バーベキューをしたりプールをしたり泳いだり、あるいはみんなでミュージカルを見に行ったり、ウィークデイでも昼は公園で軽い食事をして、バレーボールやフリスビーを楽しむ・・・。みんな人生をエンジョイしていた。
そういう人たち、研究者、技術者、営業やマーケティングなど職種を問わずに、多くの人が共通して口にしていたことがある。
「30代までは一所懸命働いて財を成し、40までに家族を持ちたい。40代は家族のために生き、できれば50代には社会のために生きたい・・・。」
この考え方というか生き方に感じ入った。そして、それが私のその後の生き方に影響を与えた。その意味では、それまでの考え方の棚卸をしたということかもしれない。
いま振り返ってみると、そういう生き方を知ったときは、もう40近くになっていたこともあるが、思ったようにはいかなかった。家族Family をもつというのは、結婚することではなく、子供を生み育てて幸せな家庭を作ることである。そのために生きる・・・ということだが、私の40代は仕事のために生きた・・・という大きな反省がある。
(つづく)
ある友人が言っていた・・・「どこかで一度人生の棚卸しをしないといけないじゃないか?」 この言葉に触発されて思う。ひとは意識するとしないに関わらず、何度か棚卸しをしながら生きているのではないか。青春時代の苦い挫折、はじめて社会に出たとき、結婚し子供ができたとき、身内や親しい人が亡くなったとき、理由や契機は人それぞれである。私の場合を考えてみた。
人生の転機
私が人生の棚卸をしたのはいつだろうか?と思い起こす。就職したときは、そういう意識はまったくなかったし、棚卸しをするほど生きてはいなかった。結婚し子供ができたときだろうか。それも違う。未来に向けて家庭と仕事の世界を切り開いているときだった。過去を振り返ることはなかった。
最初の「人生の棚卸」のようなことがあったのは、30代半ばのとき海外に赴任したときだろうか?家族で海外に移り住み、人間関係も仕事もゼロから再出発というのは、生活と仕事の大きな環境変化であった。過去何十年かの間に身についた日本での生活習慣、人間関係などから離れて、これからどうするかを考えなければいけなかった。
しかし、それは「人生の棚卸」ではなかったと思う。私にとっては、未知のキャリアの始まりだった。生活習慣も仕事も人間関係も変わったが、過去のそれらを棚卸したわけではなく、またそういう意識もなかった。キャリアの棚卸だと、「これまでの職業人生を振り返り、どのような仕事や職務を経験し、その過程でどのようなスキル・知識をどの程度習得したのかを整理すること」ということができる。それもしなかった。ただ、明日への道を歩き始めただけだった。人生の転機だったことは確かであった。
人生はキャリアだけではない
キャリアは人生の一要素にすぎないが、日本をはじめ経済至上主義的な諸国の多くの人たちにとっては、キャリアが人生の大事でその大半を占めていると無意識に思い、それが生きる道の主軸になっているようだ。私も例外ではなかったが、私の世代の多くのひとたちは「キャリア」という意識はなかった。社会に出てから、運も良かったのだが、月給は3年後には4倍近くに増えた時代だった。
最初は無我夢中だが、好きな仕事を好きなように自由にやれる組織風土のなかで若いエネルギーを注ぎ込むことができた。しかも、仕事は半分、残りは遊び・・・。先輩に連れられて飲みに行く、毎週末には、山に海に遊び、旅に出て、テニスやヨットも楽しむことができた。海外旅行は、費用的にも一年分の給料が必要で、夢の時代ではあったが・・・。
人生は、キャリアだけではない。職業に就くことは、収入を得て生活の基盤を安定させ、家族に安心と安全と快適さを与えるために必要であり、それは生涯続くことである。キャリアは、より高い報酬と地位と名誉のために追い求めるものかもしれないが、人生はそれだけではない。
SNSのなかで、メンバーのTさんが「ありえない話」について貴重な意見を書いてくださった。少子時代に、「少人数学級はありえない」という指摘である。Tさんは、「・・・一人の子どもに二人の親と4人の祖父母と結婚していないおばさん・おじさんが関わることになります。子どもに関わる親が多くなり、切磋琢磨ができない、ひ弱で自己中心の子どもになってしまいます。」という。これは重要な指摘である。わたしも同感である。核家族化は昭和の団塊世代の特徴であったが、その傾向と未婚の増大が、少子時代における子供たちに与える影響という視点に気づかされた。
これは大きな変化ですね。核家族化が進む前は、結婚している大叔父、大叔母、おじさん、おばさんがいっぱいいたが、みんな自分の家族をもっていた。盆、暮れの薮入りや、年季奉公で祖父母の兄弟姉妹の家族、父母の兄弟姉妹の家族が一堂に会す・・・というのはなくなってしまいましたね。そういうときも、従兄弟や叉従兄弟たち、子供たちがあつまって遊んだものですね。
小学校、中学校も、40〜50人学級が多かった。そのなかで十数人のグループがいくつかできて互いに交流したり、別のグループに参加したり・・・と子供たちは、十人十色の友達を知り、一緒に遊び学んだ。それが、子供たち同士の刺激になり、競争もすれば、協調もする。そうして、善悪の判断も学び、人との付き合い方、社会性をを学んでいったんですね。
成人になっても、人が群れる基本単位は、40〜50人または家族だと思いますね。日本でひとつの集落、日常の生活圏というのは、私の田舎では、50家族(軒)前後が多い。寺や神社がひとつあって、それを中心に家が軒を並べている。昔の呼び方で「小字(こあざ)」といった。それが、さらに十数件の「カイト」(漢字は垣内かな?)に分かれていた。
興味深いことに、アメリカやヨーロッパの地方にいくと、ひつの集落は50軒程度のようですね。もちろん寺や神社ではなく、教会が中心にある。人間が群れるときの最適規模が50くらいということでしょうか。
これはビジネスの世界でもいえるのではないかと思いますが、基本単位は3人、30人、300人・・・といわれることが多い。軍隊の組織では、最小単位の分隊は10人くらいからで、旅団は3000人程度で編成される。これらはリーダーの統率が必須であるため、一課や一小隊は30人が適切なのであろう。
互いに刺激しあって、競争し、そして協調する。切磋琢磨する多人数学級が、子供たちには必要なことでしょう。
六本木にある国際文化会館で、琴とバイオリンの三重奏を楽しんだ。日本古来の13弦の琴と、音域を広げるために宮城道雄が発明した17弦の琴とバイオリンである。
演奏曲の筆頭は、もちろんのことながら「春の海」であった。昭和の初めに発表され、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演されて世界的な評価を得た名曲である。
日本人のこころの底に響く琴と花のあるバイオリンの音色は美妙に混ざり合って、静謐さの中にゆったりと、しかし力強い波がうねる海の光景をこころに映し出してくれた。久しぶりに豊かな時間を持つことができた。
この日の第一部の演奏曲は、宵待草、この世の花、荒城の月、おぼろ月夜など、昭和の人間いはなつかしい曲ばかりであった。そのせいだろうか、参加者は年配の方が多く、しかも女性が9割近くを占めていた。
休憩を挟んだ第二部は、タイスの瞑想曲、雨の日の噴水、虹の彼方になど。「虹の彼方に」は、ご存知「オズの魔法使い」のテーマ曲で、アカデミー作曲賞歌曲賞受賞曲である。そして、最後はチャールダーシュCzardas」であった。ハンガリー文化の異国情緒あふれる曲で、日本文化に自由と素直さへの憧れをこめたような曲である。
旧岩崎小彌太庭園を借景に、しとやかな和服とあでやかな洋装、そして琴とバイオリンの織り成す音色に包まれたコンサートホールは、家族的な雰囲気で、こころやすらいだ。
遥 洋子というタレントをご存知だろうか。彼女が、鋭い「成功の法則」を書いていた。「成功する人とは、その”責任”を忘れない人」であると。
日経ビジネスのNBonlineで記事を書くエッセイストでもあることを知った。昨日の”読者が選ぶ注目の記事」一位が、彼女が書いた記事、「自分にはチャンスが来ないと思ったとき」であった。
宝塚歌劇公園直後に招いたスターにインタビューしたときのことを書いている。「夢を売る」職業の人に、どこまで”本音”をきけるかという課題がインタビュアーにあるが、彼女が聞き出したスターの答えが印象的である。
そのスターは初日の舞台挨拶でこう語ったという。
「夢がたとえ叶わなくても、そこに努力する道のりこそが、夢」
夢が叶ったその日に”叶わなくても”という表現をするスターはめずらしく、その後の取材でも「自分にはチャンスが来ないかもしれないと思った時期がある」と語っていたという。
なぜそこまで頑張れたのですか?と聞いた、その答えが、
「自分が宝塚に合格したとき、不合格になって夢を断念した友達がたくさんいる。その人たちの悔しさを忘れるわけにはいかない。」
20年近い過去の出来事がいまだにモチベーションになっていることに、遥洋子は驚いたという。
たしかに、このスターが20年もの長きにわたって抱いてきた思い、夢を断念した友達の悔しさを考えて、苦しい時期を乗り越えてきた、そういえる人は何人いるだろうか?
遥洋子はエッセイの結びにこう書いている。
「そもそも、競争社会なのである。宝塚のみならず我々の社会だって。自分は目標の会社に入社できたかもしれないが、その背後には多くの断念組がいたはずだ。出世を夢見たものの、幾度の自信喪失を体験しつつ働いてきたことだろう。そしていつしか感謝も忘れ、夢を断念することの痛みにも慣れ、絶望の暗闇に目をつぶって働いてはいないだろうか。
どんな職業であれ、自分が誰かから選ばれた人間であることに間違いはない。
成功する人とは、その“責任”を忘れない人なのかもしれない。」
わたしは、この詩人のことはほとんど知らなかった。29歳で早世したキリスト教信者であったということすら知らなかった。先日、ネットでの友人が教えてくれた、八木重吉の詩集があるホームページを覗いて、一瞬のうちに、こころを揺すぶられた。
八木重吉 「秋の瞳」 序私は、友が無くては、耐へられぬのです。
しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、
これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。
そして、私を、あなたの友にしてください。
私の目に最初にとびこんできた、この序を読んで、胸が熱くなる思いを抱いた。
「友が無くては、耐へられぬのです」と詩人はいう。キリスト教の隣人愛は言葉として知っている。隣人を、友を愛しなさいということだと思っていた。
しかし、人間は生まれながらにして愛を求めている孤独な魂なのだ。友なくして生きていけない存在なのだ。あぁ、これが第三の本能「群れる本能」なのだと、詩人は気づかせてくれる。友を求める人がいるから、友を愛しなさいといっているのだと思った。
そして、「貧しい詩」という詩人の謙虚さが切々と胸に迫る。読んでくれる人に捧げ、感謝するこころが伝わってくる。彼が捧げる詩を読みたくなる序である。
その期待は応えられる。まだ十数編しか読んでいないが、それだけで、こうして何かを私に書かせようとする静かな力がある。
「息をころせ、あかんぼが 空をみる」
「わたしは わたしは 白鳥となり・・・ おほぞらを かけり・・・」 「わたしは ひとりぼつちで描くのだ、 これは ひろい空 しづかな空・・・」
といううたが詩人のこころを表現する。
「鉛のなかを ちようちよが とんでゆく」
なんという表現なのだろう!テーマは重苦しさや苦しみ哀しみであるのに、それをたんたんと歌に詠み、読むものには重苦しさを微塵も感じさせない。
静謐な美しい自然の風景を思い描かせ、読むものに生きる希望と喜びを感じさせてくれる。
わたしの友人が、八木重吉の詩を好きなのがよくわかる気がした。わたしとは、受け取り方が違うだろうが、万人のこころに響く八木重吉の魂が、いまも生きているのだろう。
わたしも八木重吉の詩にふれ、自分の魂の声に耳を傾けてみたいと思う。
今日は多くの企業で入社式が行われた。我が家の末娘も某自動車メーカの入社式に臨んだ。やれやれである。
テレビの入社式報道で娘が映るかも知れないと妻が見ようとしていたら、電話があって肝心の場面を見落としたとぼやいていた。娘は娘で、新聞に載った写真では、自分の頭しか映っていなかったと残念がっていた。
三年前になるだろうか。「セレンディピティ」という映画があって、日本では「幸せな出会い」と訳されていたと思う。なるほど、そういう解釈の仕方があるのだ、と思った。私が「セレンディピティ」という言葉を知ったのはずいぶん昔で、当時三菱総研の理事長をされていた牧野昇さんが、先行技術開発において大切なのは、「目利き能力」だという意味で、セレンディピティという言葉を使われていたと記憶している。
今年もいろんな新製品やサービスが提供され面白くなりそうである。Vistaがどれだけ消費者に受け入れられるか疑問が多い。ブラウザはFireFoxの猛追にいつまで耐えられるか?Officeは、Google OSとオンラインアプリケーションあるいはSaaSに置き換わっていくのではないか?携帯市場は今後もユビキタス化の流れで乗って成長するだろうが、マイクロソフトは出遅れている。
先の記事の続きである。「平井」というのを、同じ「大辞林 第二版」で調べた。たった一件だけあった。「平井権八」である。あまり良い名前ではない。
「江戸前期の武士。鳥取藩士であったが人を殺して退去。江戸で強盗殺人を犯し延宝年間(1673-1681)に磔(はりつけ)になったという。歌舞伎の白井権八のモデル。」とある。まさか彼が祖先ではないでしょうね!もっともそんなことをいったら、佐藤・鈴木・高橋さんなんかは、同じ苗字の殺人者が何人も祖先にいることになってしまう(笑)それにしても「歌舞伎の白井権八」とはなにものかな?
節目の日を迎えて記事を書いたが、そのなかで50台という誤字が気になった。かな漢字変換のミスではなく、One's Fiftiesというときは「代」か「台」かどちらだったっけ?と思った。「暦が還って」小学生に戻ったような気分である。はっきりしないとなんだか落ち着かないので調べると、これまで知らなかった意味があることに気づいた。先日書いた苗字の話も思い出した。
私は今年、三回目の成人式を迎えます。「還暦」というより「三回目の成人式」のほうが今風で良いと思うので、同窓会などで挨拶に立たされたときはそういっている。また、心新たに第三の人生を歩み始める、青春時代を迎えるといった意味を込めてそういっている。ポール・エリュアール(Paul Eluard)の詩に、「年をとる、それはおのれの青春を歳月の中で組織することだ」という言葉がある。これを引用して、50台の自分を振り返って書いたブログがある。
友人が、「苗字の分布」を教えてくれた。「平井」というのは比較的西日本に多いとのこと。確かにわたしは奈良県出身である。分布図をみると件数では大阪が一番多く、東京、神奈川、兵庫と続く。一方、「密度」、全苗字に閉める比率では、香川、富山、岡山、山梨、京都の順になっている。
巷では「2007年問題」として数年前から話されていたが、なぜそうした後ろ向きの捉え方しかできないのだろうかと思う。問題ではなく、新しい可能性が生まれ出てくるときだと考えられないのだろうか?それはここでの議論外である。「団塊世代」という言葉の生みの親である堺屋太一さんの団塊世代へエールを送る本を読まれたい。
これからの日本の社会を、経済を、文化を作り出すのは団塊の世代をおいてほかにはいない!とだけいって新年の第一声とする。
好奇心でGroupsを試用しています。昔、Usenetで多くの人たちから助けてもらったことを思い出しています。現実の世界で知己を得た人に教えてもらうことは当然ですが、まったく見知らぬ人にemailで質問し、教えてもらえることを知った感激は20年経ったいまも忘れられません。それ以降、プロジェクト管理から経営のあれこれの情報を得たり、質問したり、仕事の指示をしたり、個人的な悩みの相談に乗ったり、ときにはオンラインチャットで意見交換をしたり・・・その効用は絶大であった。日常会話に使うスラング交じりの英語の意味をチャットで教えてもらうこともよくあった。知らずにゲイコミュニティに紛れ込んで誘われたこともあり、今となってはなつかしい思い出です。
自然の美を写し取る写真撮影が趣味で、写真クラブの仲間たちと撮影旅行にも行く、大学の同窓生がいる。彼のホームページを久しぶりに見た。茨城県の花園渓谷で、風を受けて揺らめく紅葉の写真がトップページを飾っている。彼は、5年前にウォーターライセンスを取得し、美しい海に潜って、そこで遭遇した魚たちを撮った写真もある。イロブダイやクマノミ、あるいは大きなマンタなどを目と鼻の先に見るのは感動的な体験だろうと思う。
10月17日 7:46am EDT (AP通信) アメリカの人口が3億人になった。米国国勢調査局の公式発表である。3億人目の赤ちゃんは発表されていない。移民の国アメリカでは、それは必ずしも赤ちゃんとはいえない。その日に移民した人が3億人目かもしれない。すでに何ヶ月も前に3億人を超えているともいう。そういったこともあり、記念すべき日を祝い、花火を打ち上げるといった催しなどはないとのことで、アメリカ国民は冷静に受け止めている。
日本でもSNSの利用が急増している。これを支える日本発のソフトの開発と普及を望む。昨年夏頃にAffelioが発表され、早速入手してインストールを試みたがうまくいかずにあきらめた。そして、バージョン2がでたので再度試したが不調に終わった。どうもオープンソース開発と事業化の二束のわらじを履いてつまづいたのではないかと心配している。
ACMの賞にはいろいろある。一番有名なのは、チューリング賞で2005年度は、コペンハーゲン大学のPeter Naur名誉教授が受賞した。あの有名なAlgol60開発者であり、BNF(backus-Naur Form)をつくった一人である。今日までのプログラミング言語設計とその発展の基礎を築いた。「正しいプログラムを書くための方法論」の先駆者で、構造化プログラミング(goto-less programminngともいわれた)の提唱者としても名高い。彼のコンセプトを継承し発展させたことで名をはせたのが、 Floyd, Dijkstra, Hoareたちである。
かつて無料サイトで作ったホームページはM&Aの嵐の結果、閉鎖と移行を余儀なくされバラバラになったので整合性をとるのに苦労している。この一年は独自ドメインに展開し、Movable TypeやXoopsといったソフトを使って再構築している。その過程で、PerlやJavaScript、php, MySQLなどに好奇心を刺激され、そうしたツールの学習を楽しんだりしている。その結果、肝心のコンテンツの整理が遅々として進まないという結果に陥っている。
学習してもすぐ忘れてしまうので「学習手帳」を作った。これからホームページやブログを自作しようとする人の参考になるかもしれない...と思い、これからも学習結果を追加・修正するので、手作りをやめてMTで作成し整理していくことにした。HTMLとCSSは仕様全体の1~2割程度しか使いこなせていないが、中級の入り口まできたのではないかと自己評価している。将来の学習の楽しみにとっておくとして、いまはJavaScriptやPHPに関心がある。とくにPHPはパワーフルで使い勝手もよさそうである。世の中のコミュニティ運営などの商用システム(CMS)の多くが、早くからPHPで開発されたことも道理である。
公開ブログは、匿名社会のあり方と匿名性ゆえの人間の振る舞いに関心があり、Yahoo!やmsn space、Blogger、Lycos、Excite、Livedoor、Bloglineなどでブログサイトを試行してきた。最近は多量の写真やスライド、動画を無料で保存できるサービスが一般化したため、Flickr.com, Slide.com, MySpace.com, YouTube.com, iFilm.com, Blip.tvなどの会員になって試している。中でもflickr, slide, ifilmは大変使いやすく、これらに保存した写真、スライドショウ、動画を他のWebから簡単に参照できるので重宝している。この「だるまBLOG」での利用も増えていくだろう。こうしたサービスプラットフォームを活用したWebはますます進展していく。「Web2.0」が個人利用で現実化している証左であり、マッシュアップも個人でできるところまできている。
一方、Homepage BuilderやHotmadia, PhotoStory3, phpスクリプトを使った手作りのWebページも捨てがたいものがある。時間はとられるが自分の思い通りのスライドショウや動画を作成できるのが良い。週末や就寝前のちょっとした暇つぶしにもってこいである。
※2004以前のホームページのコンテンツは、米国駐在員時代の話、仕事で訪れた国や歴史・文化に想いを馳せて綴った日記、美しい風景に感激して撮った写真、ソフトウェア開発・販売やグローバルビジネス、ベンチャー投資や戦略提携、人事・法務を含む経営問題、そして体操・山・スキー・読書・ガーデニングなど個人的趣味に関する話など種々雑多な内容となっている。これらはテーマ別に整理して、「だるま譚」に集約しようと思っている。思っているだけで作業は進まない(苦笑)
今朝、知らされた。亡くなった...と。
今年、還暦を迎える人生の大きな転換点だった。
昨年、病魔におそわれ手術をした。
突然、人は亡くなるものなのか。
人の死は必然であり、厳粛なものである。
死を前にして、本人と家族はなにを思うのか。
当事者にしか分からない人間の心のありようだ。
他者には分からない。立ち入るべきことではない。
人はそれぞれの価値観をもって生きている。
若き者たちは「人生」のありようを考える。
迷いや悩み、喜びや楽しみ、そして希望と絶望...。
それらの狭間に生きる道を探し続ける。
人間五十年...を考えはじめた人はどうか。
下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり...。
有限の生命のはかなさを考えざるを得ない。
「生命」のありようを求めて生きていく。
生命に宿る「たましい」を思う、というべきか。
魂魄...魂は精神を、魄は肉体をつかさどるたましい。
魂は冥途にござれども、魄はこの世に留まりて...。
仏教の「諸行無常」を意識する。
「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」
「いま」を生きている人間の勝手な思いである。
おなじ時代を生きて亡くなった人間の無念さは、
いかばかりであっただろう。
明日はわが身である。
暗号に関する記事を書いたが、これを下調べする中でJW-Stumpelさんに出会った。同氏が関係したオランダ政府経済省の報告書The Future of electronic Communication(2005年7月)の存在を知った。ネットワーク情報セキュリティ調査の一環として参考になる資料である。
Stumpelさんはオランダ在住。奥様は日本人で「オランダ事情」についてブログ発信(忘れな草の空の色)されている。その一部を読ませていただいた。日常の何気ない話の中で、オランダ人気質やその文化を知ることができる。また、宗教・政治や国際事情にわたる話があったり、日本に帰国して生まれ故郷を訪れたときの話があったりする。「故郷とは、私にとって、心の中で帰りたいと思う場所こそが故郷なのだ。」という心情はよく理解できる。私より少し年配ではあるが同じ時代を生きてきた日本人として共感を覚える話に満ちている。
2月12日から17日間の旅をした。国の委託調査の一環としてヨーロッパ各国を訪問し述べ30人以上の政府関係者と民間企業の経営者と話した。日本を経つときにはアポイントが半分も確定しておらず日程も不定で、旅をしながら飛行機・電車とホテルを予約しなければならなかった。
訪問先の日程が変わればフライトとホテルをキャンセル・新規予約をする。2週間の間に10カ国を出入りするという強行軍であった。早朝5時に起きてロンドンからブラッセル行きの電車に乗り昼食をはさんだ二つのミーティングを終えたその足で午後4時のベルリン行きの飛行機に飛び乗る...。
翌日のベルリンでの連邦内務省ほかとの打ち合わせのあと夕刻にはブラッセルに戻り、夜8時からミーティングといった具合で息をつく暇もなかった。時間を見つけて残るミーティングの確認とその日程に合わせた飛行機とホテルの手配......。
かつての企画部の仲間から飲み会の誘いがあった。全員が同じ目的意識をもって取り組んだ仕事の仲間には強い絆が生まれる。それは時間の中で風化することはない。苦しかったことや嫌なことは懐かしい思い出になり、喜びは鮮明さを増して、仲間が一致協力してことに当たった記憶が互いの絆として残る。仕事を離れ、スキーやテニスを楽しんだことは仲間たちの共通の楽しい記憶としていつまでも残る。
そうした仲間からの誘いは実にうれしいものである。短い人生の中で知り合い、何かを共有した記憶は、仲間たちの共通の財産であり鮮やかな色彩を持って生き残っていく。そうしたことを求めそこに喜びを感じるのは人間の第三の本能に由来するのだと思う。
::Trivia:: 第三の本能とは何でしょう?



正月三が日は5-6時に起き朝ごはんを軽く食べたあと、カリフォルニア大学のはずれの丘に登る。朝日を眺めるためである。Valleyの遠くの山間から昇る太陽が山と海に囲まれた森の中の町をオレンジ色に染める。ここは私の好きな場所のひとつで、自然の恵みと生を受けた喜びを感じる。
長年の間に溜まったPCファイルを掃除していると、懐かしい文書や写真に行き当たり、しばしたたずんでしまうことがよくある。掃除しているのか思い出を探り出しているのか分からなくなる一瞬である。
いまもそんな記憶にぶつかった。ポールアンカとフランクシナトラの"My Way"である。掃除中に見つけたのは布施明が歌うMy Wayで昨年の紅白でかもしれないが、PCに録画したものがあった。この録画記録が懐かしいのではない。思い出したのは、十数年前、最初の駐在を終えて帰国するときのことである。
別れにはある種の感慨がある。喜びと苦しみを分かちあった同僚・部下たちに書き残したのがこの詩であった。最後の日に、自室の白板一杯に書き残したのが昨日のように思い出された。その当時の私の心情に一番近いと思って選んだ詩であった。
いま布施明が歌う日本語詞をみると、じつに日本人の心に訴えかけるような訳詞で感心した。中島潤・片桐和子両氏の訳詞である。
ネット版「不幸の手紙」が横行していると警鐘を鳴らしている記事(2005年11月11日 読売新聞)を読んだ。ネット世界での匿名社会の恐さを知らない親の世代とPC/Internet/携帯が急速に普及した時代に育つ子供との間の意識のギャップが大きい。大人が知らないところで、子供たちが無差別被害にさらされ、その心を蝕んでいる事実に気づくべきである。
ネット版チェインメールを受け取ったときは友人・知人など無差別にメールを転送して他の人の心まで蝕むような行為をすべきでない。「チェーンメールを転送しないと怖い」という子どものために、日本データ通信協会迷惑メール相談センターがチェーンメールの転送先の専用アドレスを用意している。
NHKアーカイブス 1977年 芸術祭大賞受賞作品
男たちの旅路 第三部 シルバーシート
~孤独な老人たちが都電ジャック~
老人たち:
棄てられた人間
必要とされない人間
同情はされるが敬意を表してくれない
皺くちゃのばあさんも5人の子供を生み育ててきた
人間はしてきたことで敬意を表されてはいけないのか
亡くなった本木さんは、ロンドンで優秀な記者だったことがある
何かをしてきた人だということを忘れてはいけない
そうでなければ使い棄てられていくだけじゃないの!
原 民喜は、原爆にあたることの凄まじさを文章に刻み続けた。
「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。
僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。」 (「鎮魂歌」より)
「…世界は割れていた。僕は探していた。何かをいつも探していたのだ。廃墟(はいきょ)の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻った。人間はぞろぞろと歩き廻って何かを探していたのだろうか。新しく截(き)りとられた宇宙の傷口のように、廃墟はギラギラ光っていた。巨(おお)きな虚無の痙攣(けいれん)は停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積(たいせき)の下や、割れたコンクリートの窪(くぼ)みには死の異臭が罩(こも)っていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。白い大きな雲がキラキラと光って漾(ただよ)った。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。夕方は迫ってくるもののために佗(わび)しく底冷えていた。夜は茫々として苦悩する夢魔の姿だった。人肉を啖(くら)いはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨(ほうこう)していた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだろうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻った。人間が歩き廻ることによって、そこは少しずつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだろうか。」 (「鎮魂歌」より)
「遠き日の石に刻み 砂は影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」
四十五年前に作られた「わたしは貝になりたい」という映画である。ご存知の方もあるかと思うが、あらすじを紹介すると、太平洋戦争の激化とともに理髪店を営んでいた主人公も徴兵され戦争へ行く。そして上官の命令で捕虜となった米兵を殺すのである。戦争が終わって平和な生活に戻った時、主人公は「捕虜虐待」の戦犯として逮捕される。巣鴨プリズンでは誰も処刑されることもなかったために講和条約によって釈放されるものと信じていたが、結局、「私は貝になりたい...」という遺書を残して絞首刑にされるのである。
主人公が米兵を殺したことは事実であるが、当時の日本軍で上官の命令に逆らうことは自分が殺されることを意味したであろう。この映画には強い反戦のメッセージとともに、下っ端の兵士が絞首刑を受けながら、A級戦犯と呼ばれる日本を戦争に導いた人が、戦後、首相や大会社の社長に就いたことへの問題提起もあったと思う。
正月のTV番組で中臣鎌足を題材にしたドラマを見た。「大職冠」という言葉から連想するのは、わたしが生まれ育った奈良県の田舎の風景と子供時代の出来事である。春秋の祭りの季節になると、どこからともなくやってきた大道芸人が技を披露し、近隣の村人たちがあつまる神社があった。神社の境内の底なしのような池にすむカメは千年以上生きていると聞かされた。
その隣に三重の塔があり、「百済寺」と呼ばれている。子供の頃は遊び場のひとつであり、観光客さえこない古びた塔である。当然のことながら、その謂れなどになんの関心もなかった。十数年前に最初の海外駐在から帰国して久しぶりの郷里を訪ねた頃だろうか、近くに「百済寺前」というバス停ができ、ちらほらと物好きな観光客が来るようになったとのことであった。時間が見つけて、この寺のことを調べたいと思っている。
百済寺の、池を挟んだ反対側に「大職冠」とよぶお堂がある。こどもの頃に聞いたのは、鎌足が大職冠という位に付いたのを記念して建てられたということである。堂内には金か銀で鋳造された観音様があったが、戦時のドサクサで盗まれたか国に物資供出でとられた、いやいや誰かが紛失を恐れてどこかへ隠した、などという話も聞かされた。真偽のほどはわからないし、そんなことに何の関心もなかった。
なつかしく思い出すのは、大職冠(タイショッカンと発音した)の周りと床下が、恰好のかくれんぼ遊びの場であったことである。「ゴージャンジャン」とよぶ鬼ごっこもしたことが思い出される。
大職冠とは
孝徳天皇3年(647)に制定された冠位12階の最高位を「大職冠」という。649年、中臣鎌足が死の前日に天智天皇から下賜された。この大職冠の位に就いたのは鎌足ただひとりだったため、鎌足の異名ともなっている。なお、このときに「藤原」の姓も賜り、一族は藤原氏を名乗ることになる。奈良時代に活躍する藤原不比等(史とも書く)は、鎌足の次男。
藤原鎌足を祀る神社といえば、桜井市の多武峰にある談山神社が有名だが、ほかにもゆかりの土地や神社がある。ただし、考古学的には根拠が薄いようである。
大和郡山市の「大職冠鎌足神社」
これは郡山城に入城した豊臣秀長が、鎌足の英知にあやかろうと多武峰から御神霊を遷座して城の守護神として祀ったといわれる。御神霊の帰山後は、御分霊を祀る大職冠神社が創建された。ちなみにこのあたりの地名も大職冠(地図)という。
茨木市の「大職冠神社」
鎌足が祀られているというが、由来は不明である。鎌足が、茨木市・高槻市あたりに住んでいたといわれるが、どこで亡くなりどこに葬られたのかの史実がない。一説には、昭和9年(1934)に発見された阿武山古墳に埋葬されたという。現在の茨木市西阿為一丁目といわれる。<参考>鎌足の墓争い
竹にフシがなければ、ズンベラボーで、とりとめがなくて、風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。竹にはやはりフシがいるのである。同様に、流れる歳月にもやはりフシがいる。ともすれば、とりとめもなく過ぎていきがちな日々である。せめて年に一回はフシをつくって、身辺を整理し、長い人生に耐える力を養いたい。
そういう意味では、お正月は意義深くて、おめでたくて、心もあらたまる。常日ごろ考えられないことも考えたい。無沙汰のお詫びもしてみたい。そして、新たな勇気と希望も生み出したい。すがすがしくて、さわやかで、お正月はいいものである。
あけまして おめでとう ございます
何事も合理的でスピーディなものが尊ばれる昨今、それがスピーディであればあるほど、一方で静思の時というか、ゆったりしたものがほしくなる、これが人情というか、人間の本能的とも言える一つの姿でしよう。だから、これを押さえることは人間の身体や生活を、とんでもなくゆがんだものにしかねないと思います。
ですから、夜やすむ前、床の上に坐って静かに一日を反省する。やり方はどうあれ、そういう時を持って、一日のケジメをきちんとつけてこそはじめて、そこに安らぎが生まれ、明日ヘの新たな意欲が湧いてくるのではないか。世の中が騒々しくなるほど、そういう静思の時が必要になると思うのです。
……松下幸之助
発掘あるある大事典IIWEBSITEというテレビ番組をみた。今回のテーマは、老化を防ぎ実年齢よりも若く元気になるためには、性ホルモンを活性化させることだという。そのための秘訣4Kを紹介していた。
Vincent FioreさんのHPでユーモラスな画像をみたので紹介する。
つい笑ってしまいます。

今年初夏の頃から、昔のホームページのたな卸しと最新テクノロジ-(?)を使った新しいホームページ作成の学習を始めた。好奇心旺盛な性格によるものか、あれこれといろんなものを試して比較研究している。で、エンドレスの状態になっている。
ホームページ作成術に関する記事(に限らないが)をみると、あとで時間があったら読もうと思って、とりあえずそのURLをデスクトップにコピーしておく。一週間くらい経つとデスクトップが一杯になって何がなんだか分からなくなる。整理術がないためで、自業自得ではある。どうも永遠の課題のようである(苦笑)
で、また思いつきだが、このブログにQuickPostしておくと後日参照するのに便利ではないかと考えて、カテゴリー「備忘録」をつくって書き込むことにしたというわけである。
サイドビジネスの上位は「ネットオークション」「懸賞への応募」など
著者: japan.internet.com 編集部
▼2004年11月22日付の記事
ヤフー株式会社(Yahoo! JAPAN)と株式会社インテージの「副収入」に関する共同アンケート調査が発表された。調査対象は「Yahoo!リサーチ」モニター338名、うち男性165名、女性173名、年代別では20代26.6%、30代25.7%、40代23.1%、50代−24.6%。調査期間は11月4日〜11月8日までの5日間、調査方法は Web 上でのアンケート調査。
調査結果によると、全体の約半数(50.6%)が「副収入がある」と回答した。
現在の副収入源として上位にあげられたのは、「ネットオークション」(19.5%)、「懸賞への応募」(17.5%)、「広告メールを受信/サイトを訪問」(11.2%)だった。 4位「株式・金融商品への投資」(9.8%)がそれに続く。一方、現在副収入を得ている人が今後やってみたいこととしてあげたのは、「ネットオークション」(38.3%)、「懸賞への応募」(31.1%)、「株式・金融商品への投資」(24.6%)で、「広告メールを受信/サイトを訪問」は4位に転落。 1位、2位は現状と同じだが、3位と4位が入れ替わって、 オンライン株取引の人気の一端がうかがわれる。
CNN.com - Experts: Sleep more, get a dog, lose weight - Nov 17, 2004
この二週間、睡眠不足が続いた。10月に米国滞在を含めて2週間ほどのブランクがあったのが影響してバックログが溜まってしまったのが原因である。忙しいときになぜか新たな仕事が突然降りかかり処理量が増大する。そういうことを誰しもが経験したことと思う。「マーフィーの法則」といったかな?悪いときには悪いことが重なる・・・ということである。そんなときに思い出す言葉が、"tough gets tough going"である。タフさ(強さ)が困難を打ち破る・・・といった意味である。
昨日、年一回のイベントであるフォラムを無事終了した。経団連会館の国際会議場で、新生銀行の八城会長に基調講演をお願いして開催したフォラムである。その企画と司会を担当したが、日本でこの種のイベントを担当するのは10年ぶりであった。アメリカでは何度もあったが、とくにイベントというほどではなく日常的な催しで気楽であった。しかし日本はいろんなことにあれこれ気を使って準備する。伸長で緻密ということかもしれないが時間を使いすぎである。昨年の準備では企画委員会みたいなものを作って数人の人が3ヶ月間準備し幹部や関係者に説明し意見をもらってやったという。いかにもそつのない日本的なやり方だと感心する。とても真似ができない。企画とプログラム内容は、えいやっ、と半日で完了。それで、だれも異論を唱えなかった。そんなものである。
当日の司会の準備ができなくて弱ったのは事実である。いろんなことがこの二週間に起きその処理に追われたからであった。結局、司会の準備は前の晩にやる羽目になった。八城会長ほかの講演者に失礼のないように、その紹介を的確に、そしてプログラム進行に齟齬がないように・・・ということに気を使う必要があった。当日は、これまでの寝不足と疲れ、それにたばこの吸いすぎが原因でのどが痛く、ときたまセキが出る状態で決して良い調子ではなかったが、なんとかこなすことができた。基調講演の模様は、テレビ朝日の番組、サンデープロジェクトの特集レポート(リップルウッドと新生銀行の事例)で放送される予定である。
タイトルとは直接関係のない話になってしまったが、昨夜はたっぷりと睡眠をとりひさしぶりに世の中どうなっているのかをネットサーフィングしながら見ていると"Sleep more, get a dog, lose weight"というCNNの記事が目についた。
今週ラスベガスで開催されたNorth American Association for the Study of Obesity(肥満研究協会)の会議で発表されたもので、18000人の協力を得て睡眠時間と肥満の関係を調査した結果、そこにはおおきな因果関係があるという報告である。
この報告によると、睡眠時間が4時間以下の人が太る確率は、平均睡眠時間7〜9時間の人と比較すると73%高いということである。睡眠不足だと、食欲を抑える血液中の物質レプチンleptinが減り、逆に食欲を増進する物質グレリンghrelinが増えるからだと説明されている。このほかに、犬を飼っている人は肥満になりにくいという研究結果も報告されている。
太らないためには「最低7時間は睡眠をとり、犬を飼いましょう」というのが結論のようです。いろんな研究があるものですね。
一週間前に、楽天のトラックバックの使い方を勉強しているとき、偶然に楽しい日記を発見した。ケーネットさんの日記である。
読むに足りない日記が多い中で、はじめてであったドラマのような日記であった。こんなに素直に自分の心の中をなんの衒い(てらい)もなく書けることに感動すら覚え、おもわず長いコメントを書き込んでしまった。
かなり赤裸々な記述があり、このわたしのブログとは世界が違うのでトラックバックすることをしなかった。しかし思い直して、こんな「愛のカタチ」もあるのだと感じたことを以下に再掲する。ただし、読み返してみてちょっと公開するのは恥ずかしい個人的な部分は削除・修正した。ケーネットさんほど正直になれない私です(苦笑)
なお、この一週間のケーネットさんの日記はちょっと生々し過ぎるところもあるが、そこだけを見て興味本位にならないで欲しい。7/12から読ませてもらうと、人間の素直で美しくも哀しい性(さが)に感動するはずである。
八月頃より、仮想世界の住人に戻りつつある。むかし取った杵柄ではあるが、5年、10年は大昔である。新しいツールやサービスが満載で、いったいどれが自分に適しているのかを調べるのに熱中している。
それはさておき、昔のホームページの整理・移行・統合にも時間を割いているが、新生ホームページにちょっと気のきいた言葉はないかと折にふれ考えてもいる。昔から使っていることばは10年以上にもなるのでカビが生えている気がしないでもない。しかし、捨てるにはもったいないので、AboutやProfileに残そうと思っている。
asahi.com記事から
茨城県南部、埼玉県東部で震度5弱
-----------------------------
6日午後11時40分ごろ、茨城県南部を震源とする地震があり、茨城県南部と埼玉県東部で震度5弱、東京都心部や神奈川県、千葉県の一部で震度4を観測するなど、各地で強い揺れを観測した。
気象庁によると震源の深さは約60キロ、地震の規模はマグニチュード5.8と推定される。津波の心配はないという。
録画しておいた「妻の卒業式」を見た。身につまされるスト−リーである。三宅裕二のどこか人生を達観したようでいてなお生きる意味を問うサラリーマン役が共感を呼ぶ。岡江久美子が、夫と娘のために生きてきた専業主婦をリアルに演じている。この夫婦の会話をわが身を代弁していると感じ、他人事には思えないとわが身を重ねるのではないか。
こんな話を書く作家に興味を持った。「田渕久美子」をgoogleで検索して、「さくら」や「女神の恋」の作者であることを知った。世の中ではみんな知っているんでしょうが…。ともあれ、彼女はどうしてこんな物語を書くことができるのだろう?……と感心する。難解な男と女の考え方の違いを洞察し、難いほどに人間の心の襞を描いている。
昔、ForumやCBといったオンラインコミュニティにたびたび出没していた頃がある。CBは草分けのひとつであるCompuServeでの呼び方。いまはチャットというのが一般化した。10年前を思い出して……とタイトルに書いたが、チャット経験は、じつは20年前にさかのぼる。その頃日本はメインフレーム全盛時代で、先端技術に携わるものたちだけがUnixやPCの開発と普及の潮流の真っ只中にいた。わたしはアメリカにいた。ものすごい勢いでオープン化とネットワーク化の波が襲っていた。
書き出しから回顧録的になってしまっているが、これを機会にわたしがアメリカで、欧米で経験してきたことを中心に思いつくままに書いていこうかと思う。いまだに時間に追われている生活だが、いずれ終止符を打ち、晴耕雨読の生活に入る。そのときの楽しみでもあるが、いま少しずつホームページを作成している。たくさんのコンテンツがあり、その整理にかなり時間がかかりそうである。blogをやっている時間などなさそうだが、たまには書き込みをしよう。