米国版MOT:PSM普及の兆し
[出典] ベンチャー革命2005年3月17日 山本尚利著
1.PSMとは
PSMとはProfessional Science Masterの略号です。(注1)日本語に訳せば科学技術系経営学修士となります。筆者が勤務する早稲田大学ビジネススクール(文部科学省認可の専門職大学院)の発行するMOT(技術経営)修士号に相当します。PSMは米国にてポストMBA(経営学修士)となる可能性があります。
MBAは世界的に普及し、MBAホルダーは、もはや差別化が困難となっています。日本以外の国ではアジア各国も含めて、ビジネスエリートは猫も杓子もMBAをもつことが常識化しています。日本以外ではビジネスマン若手が昇進機会を得るのに必須の学歴キップです。中国のビジネスエリートなどは、MBAをひとつもつだけでは不十分で、複数持たないと差別化できないそうです。たとえば米国大学のMBAと地元中国の大学のMBAとふたつ持っていれば、グローバル性とローカル性を両方もっている人材ということで、中国に進出している外資系企業から引っ張りだことなるそうです。
2.PSM普及の兆し
PSMは2004年12月、米国競争力委員会の最終答申「イノベートアメリカ」(パルミサーノ・レポート)(注2)を受けて、今年から米国大学でいっせいにスタートします。
有名なアルフレッド・スローン(元GM社長)のスローン財団の支援を得て、北米45の教育機関がPSMプログラムをスタートさせるようです。PSMの趣旨は、日本で2003年よりスタートしたMOT経営学修士のコンセプトと類似しています。すなわち、理系の専門知識をもった人材に経営学をマスターさせるプログラムです。米国ではPSMのディグリー取得を目指す学生に奨学金を出し、企業サイドも採用時に優遇する
ようです。PSMはまさに産学連携プログラムです。
「イノベートアメリカ」報告書によれば米国では近年、理科系学部を志願する大学生が減少しているそうです。その穴を埋めているのは留学生と移民です。生粋の米国白人で理系志願が減った理由は、単刀直入に米国ではMBAホルダーに比べて技術者や研究者の企業内地位が低い傾向にあるからだと思います。そのため、理系大学卒で自己実現したい有能人材はMBAを持つのが普通です。さて米国の新設PSMは理系MBAにみえますが、入学条件にビジネス経験は要らない点で、ジュニアMOTディグリ
ーに位置づけられます。他方、MBA志願者は学部学生のとき、必ずしも理系学部を専攻する必要はないのですが、実務経験が要求されます。一方、PSM志願者には実務経験よりも理系のバックグラウンドが要求されます。ここがPSMとMBAの違いです。
ところで、現在の米国ではMBAホルダーが供給過剰となっています。そこで近未来、MBAホルダーに代わってPSMホルダーが企業から引っ張りだことなれば、MBAよりもPSMを取ろうとする学生が当然ながら増えます。PSMを取るためには、大学の学部で理系学部を専攻することが必須となり、結果的に、大学受験生に理系志願者が増えることになります。「イノベートアメリカ」に参画している米国のトップクラスの
指導者の狙いもここにあります。
この意味で、米国のPSM制度とは、減る一方の理系大学受験生を増やすための仕組みであることがわかります。その上位概念には、米国の国益維持が存在します。イノベーションによって技術競争力を高めることが国益維持に必須であるが、そのためには、優秀な理系人材の確保が不可欠であるという考えです。
3.MOT教育で先行した日本
日本では、近年、経済産業省がMOT人材育成に力を入れてきました。その意味で、2005年現在では、米国のPSMより、日本のMOT(80年代米国のMOTを限りなくPSMに近づけている)が一歩リードしていると評価できます。つまり国家レベルのMOT教育に関して、幸運にも一周遅れで米国に並んだといえます。米国のPSMは日本の始めたMOTを意識した可能性はあります。90年代、米国はMBAホルダーの経営者やベンチャー創業者によって、マネーゲームによるバブル経済が引き起こされました。その結
果、地道なイノベーション活動が低迷したのです。米国のPSMコンセプトは90年代開花したMBA流経営の副作用への反省に立っています。つまり、バック・ツー・ザ・フューチャーで、80年代米国のMOT時代への回帰と受け取ることができます。90年代、米国ビジネススクールのMOTログラムは、MBAプログラムに吸収合併される傾向がありましたが、これではいかんと米国グローバル企業の良心的経営者がまず反省し始めたのでしょう。2005年現在、9.11事件以降、3年を経て、米国の産官学の良心的エリートの間で、イノベーションによる競争力回復のムードが再び高まっているようです。彼らの問題意識と危機感は「イノベートアメリカ」ににじみ出ています。
4.MOT教育における日米の違い
イノベートアメリカに倣って、イノベート・ジャパンが日本経済新聞社によって組織されています。(注3)こちらは、経団連活動の延長線で、有志連合の財界活動のようです。米国との違いは、学界人の参加がない点です。日米の大きな違いは、有識者としての学界人の扱いです。米国では学界人が一目置かれています。有名なマイケル・ポーター(ハーバード大学教授)やウィリアム・ミラー(スタンフォード大学名誉教授、筆者の所属したSRIの元CEO)が「イノベートアメリカ」のワーキング・グループのメンバーに入っています。一方、「イノベート・ジャパン」では、日本の学界人は入れられていません。
MOT教育の課題に関しては、経済産業省の創設した「技術経営コンソーシアム」注4)のほうが、むしろ「イノベートアメリカ」の産学連携組織に近いといえます。ただ、「技術経営コンソーシアム」は経済産業省のお声がかりで受身的に参加する法人の組織であり、問題意識や危機感を共有する組織とは言い難い。
ところで「イノベートアメリカ」の提言にみられるように、米国の国家戦略提言の優れている点は、イニシャティブと呼ばれる戦略的ロジックが明確に存在する点です。まず、国益が最上位にあります。国益維持のために国家の戦略技術の競争力確保が重視されます。そのためには挙国体制でのイノベーション活動が必要であると説き、挙国体制イノベーションの成功の条件としてタレント人材育成、科学技術
投資、知的インフラ整備が挙げられています。とりわけ人材育成が鍵であると主張しています。国家の人材開発課題ではMOT教育の重要性が説明され、MOT人材開発への投資のための奨学金、教育プログラムの整備が必要と提言されています。そして具体的な施策として全米規模でPSMプログラムが早くも実行に移されています。米国では実行の伴わない提言は空論に過ぎないという考えが常識化しています。「イノベートアメリカ」プロジェクトでは国家戦略が産学連携で立案され、それを官がサポートする体制です。一方、イノベート・ジャパンの活動はアドホックな願望型提言が多く、具体的施策に結びつかないようにみえます。つまり言いっ放しとなりやすい。ちなみに日本企業の公表する経営方針も言いっ放しの願望であることが多い。
注1:PSM情報に関するウェッブサイト
注2:「イノベートアメリカ」最終報告書、2004年12月、米国競争力委員会
委員長のサム・パルミサーノはIBMの現役CEOである。
注3:イノベート・ジャパンのウェッブサイト
注4:技術経営コンソーシアムのウェッブサイト