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浅誠さんと勝間和代さんがTwitterで年越し失業者対策について対談した内容です。
湯浅さんからの動画メッセージはこちらです。
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※口コミで存在を知ってもらうためには、動画の貼りつけを有効にして何百万人ものブロッガーに協力を依頼すべきである。政府のページではコメントさえできない!
私
が入社したのは1969年4月1日。新人教育、工場実習、そしてSE教育を受けたあと配属された職場が、情報処理営業本部システム部第一システム課だった
と記憶する。当時のNK部長、NY課長配下にいくつかの班があった。私はIK班に所属し、直属の上司がSAさん、HYさんだった。諸先輩から教えられたこ
とはたくさんあり、新米の社会人として進むべき道を示していただいた。この件についてはOB会ホームページに書く。
丸の内の焼き芋
社会人として最初の勤務場所は丸の内仲通りに面したオフィスビルの8階だった。先日、「1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶」で知ったのだが、入社する8年前には丸の内に焼きいもを売りにくる人がいた。
天孫降臨神話の霊峰。標高1573m。学生時代に企業訪問の帰途に立ち寄った。仲間は4人で、前日は霧島温泉に泊まった記憶がある。レンタカーだったのかバスを乗り継いだのか、記憶が定かではない。
鮮明に憶えているのは、赤茶けた火山石に埋め尽くされたような斜面だ。登山口の茶店で買った藁ぞうりを履いて直登した。企業訪問の帰路だったから背広に革靴を履いていたと記憶する。
素足に藁ぞうりだったから、火山石の中に埋もれて傷つき、素足は血にまみれてしまった。その途中で鹿児島から来たという女性4人連れと知り合った。 宮崎へ行く予定を変更して鹿児島へ行った。知り合いがいるところのほうが安心で楽しいからだ。しかし、その後、思わぬ出来事が待ち受けているとは知る由も なかった。甘く苦い思い出だが、「生まれ持った性質は死ぬまで変わらないが、性格は作り変えていくことができる」ということを知る契機になった事件でも あった。
そんな遠い昔を思い出したのは、土曜スペシャル「にっぽん名山紀行」を見たからだ。ウィキペディアほかにある写真をみると穏やかな山容だ。番組で映し出された登山道も、最初は林の中で頂上近くになっても穏やかな道が続いていた。
わつぃの記憶違いだろうか?太古に噴火した火山岩が粉々に砕けて堆積した山の斜面はどこにも写っていなかった。ネットで調べると、私が登ったのは、 車が入っている高千穂河原からの登山道だったようだ。ここからだと標高差600mで、片道2.3Km、1時間半で頂上に立つことができる。
こちらのサイトに私が記憶する斜面に似た写真があった。
いまから20年後の日本は? (今夜のNHKスペシャルから)
今後、所得が増えないゼロ成長が続くと、超コスト負担社会になる!
NHKの「あすの日本」プロジェクトが、三菱総研と協力して試算した日本の未来像は暗い。
しかし、それが現実だということだ。
これから20年、日本を第一線で支えていくのは現在35歳の人たちだ。オイルショックの1973年に生まれた団塊ジュニアと呼ばれる世代は、高校を卒業するときに日本のバブルがはじけ、就職氷河期に社会にでた若者たちだ。日本の経済が衰退する中で社会人として生きてきた彼らが、先行きに不安を抱き、収入が増えない中で結婚ができず子育てにも苦労している現実がある。
そうした35歳の人、1万人を対象に実施したアンケート調査の結果は、たいへん哀しい現実を浮き彫りにしている。
妻と子供2人を持つ25歳の男性の基本給は昨年から10%カットされ、335万円。住宅手当を含めて年収370万円の生活は苦しい。支出の1/3は住宅ローンの支払いにあてなければならず、家族4人が生活していくためにアルバイトもしなければいけない現実がある。
1万人のアンケート対象者の66%が転職経験を持つ。所得別に見ると、年収500万円台の人の54%が転職経験があるのに対し、年収200万円未満の人たちの場合、82%が転職経験があるという。
つまり、転職が収入の増加につながらないという事実が見える。
少しでも転職を有利にするために15もの資格を取得した35歳の男性。月収は16万円だという。付き合っていた女性がいたが、その女性の父親から「そんな給料で家族を養っていけるのか」と反対され、結婚をあきらめた。「このままでは世帯を持つことができない」と男性は嘆く。
収入が少ないため結婚ができないと答えた35歳
会社が倒産するかも知れないというっ不安があると答えた人が42%、解雇されるかもしれないという不安を抱いている人も30%いる。35歳の平均年収は、1997年に500~600万円だったのが、2007年には300万円になっているという。たいへんな低所得社会になったということだ。
結婚できない35歳女性の出生率は、なんと0.86だという。1940年のとき35歳の人の出生率は1.46、70年には1.28だったという統計数字と比べると最悪の少子化指数を示している。
暗い、哀しい35歳の生活実態、意識を示すアンケート結果になっているが、それが現実なのだろう。社会にでてから良いことを経験していない世代であれば、バブルに沸いた思い出と比較することもないため、淡々と現実を受け止めているのかもしれないが・・・。
ある程度感覚的にはうなづける予想だが、35歳1万人のアンケート結果を突きつけられると、日本の現在そして将来の姿に楽観は許されないと改めて思う。
日本の今後20年間をになう35歳の人たちが希望を持てる社会にするための提言がある。目標とする社会は、次の二つ。
終身雇用体制が崩れ、企業が社員を守れなくなったいまは、政府が守らなければならない。英仏の事例を紹介しながら、「積極的雇用政策」を実施すべきだという。ハコモノ投資から「人」への投資、職業訓練や就職支援をするということだが、同じことが80年代末から言われ続けている。
フランスでは「子供なくして未来なし」というスローガンの下に、二人目の子供には月2万円の補助金支給する制度が効を奏して、出生率が94年の1.65から2008年には2.02に増加したという。
日本は岡山県、西粟倉村が住宅・子育て支援をした結果、都会から家族が移住したという事例を紹介していた。取材した家族の場合、大阪で家賃10万円、子供を預ける保育園の費用7万円に耐えかねて移住した。150平米の大きな民家の家賃2万円、託児所費用は8000円、二人目は4000円、三人目は800円・・・。住宅と託児所費用だけで14万円も削減できた勘定だ。
三菱総研のシミュレーションによれば、積極的雇用政策を実行すれば25万人の正規社員雇用が増え、GDP成長を20年間で5.7%押し上げられる効果を生む。400億円投資すればGDP成長とともに税収が増え失業手当至急が現象するので、800億円のプラス効果があるという。
このシミュレーションは楽観的に過ぎると思う。右肩あがりで今後20年間もGDPが増え続けるという前提が間違いだろう。ゼロ成長あるいはマイナス成長だという前提のもとに政府も企業も思索を考え早急に実行し、そして国民一人ひとりが所得が増えないという前提でどう生きているかを考えなければいけない。
自宅にいて家人がいないときは食事が面倒で、食事の時間が不規則になる。空腹に耐えられなく なると、かんたんな料理をすることもあるが、たいていはコンビニのお世話になる。24時間営業のコンビニは、その名のとおり便利である。そう思うのは都会 に住む人々のライフスタイルが影響している。地方に行くと、お店は夜7時前には閉まり、近くにコンビニもないところが多い。私の実家がある田舎町も同じである。コンビニを必要としないライフスタイルの人が多いから、それを不便だとは感じない。
いま政府の諮問機関で、コンビニの深夜営業の是非をめぐって議論をしている。その背景にはエコライフもあるが、防犯対策も争点となっている。賛成派は、犯罪を誘発したり、若者の溜まり場になるから深夜営業は自粛したほうが良いという。
自粛反対派は、コンビニは深夜の駆け込み寺の役割を果たしたり、災害時の食料や水の供給ができるからという。痴漢に襲われたり誰かにつけられているといっ
て、コンビニに駆け込んでくる件数が年間1万3千件あるという。その40%あまりが深夜の時間帯だそうだ。だから、深夜にコンビニが開いていないとかえっ
て治安の悪化に結びつくのではないかという意見である。さらに、多くの自治体では地域のコンビニと協力して、災害時に被災者におにぎりを配る、トイレや水
を提供するといった役割が期待されている。コンビニが24時間営業だから災害対応が可能なのだという。
賛否両論があって、双方の歩み寄りが困難な状況にある。コンビニの深夜営業の是非だけを議論すると、どちらの意見ももっともだと思えるからだろう。そもそもなぜコンビニが必要なのかという視点での議論もある。
都会人の働き方も生活もどんどん深夜化し、単身世帯も増え、便利さを求めるライフスタイルが定着したから、コンビニの深夜営業も増えたということだ ろう。とすれば、現代人の働き方も含めた社会全体のライフスタイルをどういう方向に持っていくかという政策論議をしないといけないのではないか。
個人的には、便利さに慣れてしまった都会人としての自分のライフスタイルをどうするかということだ。山小屋にこもって晴耕雨読の生活をすることが自分の理想なのか?
日本のバラを育成し、世界に紹介した人がいた。バラ園芸の勉強をしていくと必ず出会う「鈴木省三」(1913-2000)という人だ。生涯に108種の新種を創り出し、数々の国際コンクールで受賞した世界的に有名な人だと知った。紫雲、聖火、かがやき、芳純、乾杯、天の川・・・鈴木省三が作り出し命名した日本のバラだという。
バラといえば赤色だという先入観があるが、もちろんピンクや黄、白などもある。花フェスタ記念公園の資料では、平成16年3月31日現在、1603品種あるそうである。日本生まれのバラが178品種で、そのうち108種が鈴木省三が創ったというから、彼の果たした役割は群を抜いている。
数あるバラの品種のなかでも「光彩」というバラの美しさには目を瞠るものがある。オレンジ色のバラだが、滅多に見られない。Webで検索しても「オレンジ色のばら」は見つけられなかった。「光彩」だと書いてあるが、ブログによっては紅バラだと書いている。中心部分がわずかにオレンジに輝いているバラの写真もあったが、全体がオレンジに輝くバラはなかった。ほとんどが赤とか紅の色である。本物の「光彩」をみたい。
鈴木省三は、「光彩」を開発するために、70年代半ば頃2000万円の分光器を買って色彩の研究をしたそうである。13年尾歳月をかけて世界で始めて、オレンジ色のバラの栽培に成功したという。その「光彩」はアメリカでの国際コンクール(AARS)で優勝した。1988年のことである。ちなみにアメリカでは光彩ではなく「Mikado」と命名された。1940年以来、AARSで受賞した日本人は鈴木省三ただ一人だ。
もっとも日本の花はやっぱりサクラで、バラは西洋の花で、日本の家庭でもバラが栽培されるようになったのはこの数十年くらいの歴史しかない。薔薇の歴史によれば、ヨーロッパでバラの育種の歴史に大きく貢献したのがナポレオンの皇后ジェセフィーヌで、1829年のカタログには4000種を超える品種があったという。
何千種もあるバラの品種のなかで、青色だけは見たことがない。青色の元であるデルフィニジンという色素がバラにはないそうである。ところが昨年に開催された国立科学博物館・特別展「花 FLOWER〜太古の花から青いバラまで〜」で、青いバラが展示された。
日本人が好む花の色に青や紫があり、私も好きだ。アジサイ、ツユクサ、ハナショウブ、ヤグルマソウなどがある。科学的には、さまざまな色の中でもっとも複雑な仕組みで発現するのが青色だそうだ。青い色素はなく、アントシアニンという赤紫の色素が、淡黄色の成分や金属が複雑に作用して青色の花になるという。複雑な心情の日本人が好む暗黙の理由かもしれない。ともあれ、青い色の花の仕組みが解明されているのは、ツユクサとヤグルマギクだけだそうだ。この仕組みを解明したのは日本人で、花の色の研究は世界の中で日本が一歩リードしているということだ。
さきの特別展で紹介された青いバラは、バイオテクノロジーの成果である。サントリの研究所で、遺伝子組み換え技術を使い、14年の歳月を経て2004年に成功したという。販売は来年の予定だそうだ。
今朝は、職安の手続きをするために関内に行った。職探しという名目だが、サラリーマンに戻るつもりはない。ハローワーク(どうしてカタカナ英語なんでしょうね)の実態に関心があった。2.5x3センチの写真で、「上部の余白が少なすぎる」なんて馬鹿なことをいわないだろうな、あれが足りないこれがないとか重箱の隅を突っつかないだろうな・・・と思ったが、そういうことはなかった。来訪者も少なく、すぐ窓口で話ができた。休職手続きと保険給付手続きは20分くらいで終わったかな。思ったより早かった。
SNSのなかで、メンバーのTさんが「ありえない話」について貴重な意見を書いてくださった。少子時代に、「少人数学級はありえない」という指摘である。Tさんは、「・・・一人の子どもに二人の親と4人の祖父母と結婚していないおばさん・おじさんが関わることになります。子どもに関わる親が多くなり、切磋琢磨ができない、ひ弱で自己中心の子どもになってしまいます。」という。これは重要な指摘である。わたしも同感である。核家族化は昭和の団塊世代の特徴であったが、その傾向と未婚の増大が、少子時代における子供たちに与える影響という視点に気づかされた。
これは大きな変化ですね。核家族化が進む前は、結婚している大叔父、大叔母、おじさん、おばさんがいっぱいいたが、みんな自分の家族をもっていた。盆、暮れの薮入りや、年季奉公で祖父母の兄弟姉妹の家族、父母の兄弟姉妹の家族が一堂に会す・・・というのはなくなってしまいましたね。そういうときも、従兄弟や叉従兄弟たち、子供たちがあつまって遊んだものですね。
小学校、中学校も、40〜50人学級が多かった。そのなかで十数人のグループがいくつかできて互いに交流したり、別のグループに参加したり・・・と子供たちは、十人十色の友達を知り、一緒に遊び学んだ。それが、子供たち同士の刺激になり、競争もすれば、協調もする。そうして、善悪の判断も学び、人との付き合い方、社会性をを学んでいったんですね。
成人になっても、人が群れる基本単位は、40〜50人または家族だと思いますね。日本でひとつの集落、日常の生活圏というのは、私の田舎では、50家族(軒)前後が多い。寺や神社がひとつあって、それを中心に家が軒を並べている。昔の呼び方で「小字(こあざ)」といった。それが、さらに十数件の「カイト」(漢字は垣内かな?)に分かれていた。
興味深いことに、アメリカやヨーロッパの地方にいくと、ひつの集落は50軒程度のようですね。もちろん寺や神社ではなく、教会が中心にある。人間が群れるときの最適規模が50くらいということでしょうか。
これはビジネスの世界でもいえるのではないかと思いますが、基本単位は3人、30人、300人・・・といわれることが多い。軍隊の組織では、最小単位の分隊は10人くらいからで、旅団は3000人程度で編成される。これらはリーダーの統率が必須であるため、一課や一小隊は30人が適切なのであろう。
互いに刺激しあって、競争し、そして協調する。切磋琢磨する多人数学級が、子供たちには必要なことでしょう。
奥州藤原氏の拠点、平泉を「浄土思想に関連する文化的景観」として、世界文化遺産に推薦することを決めた。国際記念物遺跡会議による審査の後、08年のユネスコ世界遺産委員会で登録されるかどうかが決まる。日本政府が過去に推薦した遺産は、すべて登録されているという。
平泉は11世紀末~12世紀にかけ、金資源や交易などを背景に、奥州藤原氏が造営した政治・行政の拠点。対象地域は、藤原氏三代の遺体などを納めた中尊寺、浄土庭園で知られる無量光院跡、同氏の政庁跡と考えられる柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、金鶏山など9資産、約8800ヘクタール。 (朝日新聞 2006年07月21日20時59分)
原 民喜は、原爆にあたることの凄まじさを文章に刻み続けた。
「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。
僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。」 (「鎮魂歌」より)
「…世界は割れていた。僕は探していた。何かをいつも探していたのだ。廃墟(はいきょ)の上にはぞろぞろと人間が毎日歩き廻った。人間はぞろぞろと歩き廻って何かを探していたのだろうか。新しく截(き)りとられた宇宙の傷口のように、廃墟はギラギラ光っていた。巨(おお)きな虚無の痙攣(けいれん)は停止したまま空間に残っていた。崩壊した物質の堆積(たいせき)の下や、割れたコンクリートの窪(くぼ)みには死の異臭が罩(こも)っていた。真昼は底ぬけに明るくて悲しかった。白い大きな雲がキラキラと光って漾(ただよ)った。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。夕方は迫ってくるもののために佗(わび)しく底冷えていた。夜は茫々として苦悩する夢魔の姿だった。人肉を啖(くら)いはじめた犬や、新しい狂人や、疵だらけの人間たちが夢魔に似て彷徨(ほうこう)していた。すべてが新しい夢魔に似た現象なのだろうか。廃墟の上には毎日人間がぞろぞろと歩き廻った。人間が歩き廻ることによって、そこは少しずつ人間の足あとと祈りが印されて行くのだろうか。」 (「鎮魂歌」より)
「遠き日の石に刻み 砂は影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」
昔読んだ本の中に「般若心経入門」がある。田舎生まれ育ちの私が大都会での生活に慣れず、鬱屈した日々から逃れるように山登りをしていた頃に買った記憶がある。子供時代に法要のたびに意味も分からないままにお坊さんや周りの人の声にあわせて唱えた「…色即是空。空即是色…」という有名なお経である。正しくは「般若波羅蜜多心経」というそうである。恥ずかしながら今もその内容の意味するところをよく知らない。
Amazonで調べたら、「般若心経入門―276文字が語る人生の知恵」、祥伝社黄金文庫、 松原 泰道 (著) という本があった。まさしくこの本である。20代の頃に買ったが正直いって内容がよくわからずに投げ出した。「松原 泰道」という著者の名前も知らなかったが、20世紀日本の碩学、生きる知恵を語る第一人者だということである。「諸行無常」、「生者必滅」、「因縁生起」、「諸法無我」…など仏教のこころを語る。
子供時代に祖父母に教わった「足るを知る」、アメリカで座右の銘のひとつであった「水五則」も、松原さんが禅から学ぶ人間の生き方として説いている。なんと私は無知であったのかと大いに反省している。この四半世紀のあいだ、「足るを知る」は森鴎外の「高瀬舟」のテーマである…と知ったかぶりで話してきた。「水五則」は、信州の山寺にある掛け軸に書いてある言葉だと、20年以上昔に見たTVドキュメンタリで知った記憶がある。それ以来の思い込みである。「知っている、分かっている、やっている」というのは傲慢さの証である…などと研修で話しているのが恥ずかしくなった。もっと謙虚にならなくてはとわが身を戒める。
日本人は、世界の90%以上のひとたちより物質的には恵まれている。しかし、あのルワンダやアフガニスタン、イラクの子供たち、あるいは飢餓大陸にすむ子供たちの透き通った純粋な目を見ておもうのは、ひょっとしたら日本人は自然とともに生きる大切な心を失っているのではないか……ということである。
太古の昔から人間は、日の出とともに働き、日没を迎えてから夜の闇に立ち向かってきた。一日の始まりと終わりを実感しながら毎日を生きてきた。しかし、とくに都市部では一日の境界があいまいで、9 to 5のサラリーマンをのぞくと万人共通の一日の境界はなくなった。
「漆黒の闇」と「時の終わり」に触れることがなくなってしまった。闇夜を知らない子供たちは、「となりのととろ」を空想の世界として関心を示す。時の流れの区切りを知らない大人たちは、去り行く時間に恐れをいだき、駆けるだけの人生に焦燥感を抱く。静かな闇と向き合い、自然の声に耳を傾けることで豊かな感性と想像力を養い、、そして生きることの意味を問うべきではないでしょうか。
闇と向き合う事で養われてきた豊かな想像力が無くなって行くのは寂しいことです。
ときどき”時の終わり”…を見つめてみると良いかもしれません。
世界の先進国で平和な日本に生きる我々は、大変幸せな民族である。世界のいたるところで紛争やテロが発生している現実に目を向ければ、そのことに気づかせられるのではないか。失われた10年、不景気で失業率が5%、リストラの嵐に企業倒産……などといってメディアが騒いだ。しかし、それはバブル経済崩壊前との比較で言っているだけである。貧しく恵まれない世界の国々との比較で考えることも必要であろう。1945年、第二次世界大戦が終結して以後、戦争に巻き込まれていない国は、日本とスイスなど数えるほどしかない。今の日本人には、祖先の記憶がなくなってしまったとしか言いようがないのではないか。わたしも戦争を知らない世代である。身内や親類縁者、友人・知人を戦争で失った経験は、アメリカで体験したこと(911テロ)を除いて、日本ではない。
私をふくめた多くの日本人は、「戦争の現実を知らない」ということと「日本の歴史、とくに明治・大正から終戦にかけての歴史の真実を知らない」……ということに気がつくべきではないか。そのことを教えられたのは、アメリカの友人たちからであった。とくに経営やマーケティングをジョブキャリアとする彼らのほうがよく知っている事実に、わたしは素朴な疑問を抱いた。なぜなのだろう?学校で日本と世界の歴史は学んだはずだ。
そして、もうひとつの疑問がある。戦後生まれの団塊の世代の多くが、70年安保やベトナム戦争の時代に、なぜ反戦闘争に身を投じたのか?悲惨な戦争の記憶がまったくないのにもかかわらず。わたしはどちらかというと柴田翔の「されど我らが日々」に描かれた諦観や虚無の世界の側であったが、それでも何度か反戦デモの隊列に加わった。当時の若者たちはどうしようもなく迸るエネルギーに満ち溢れていた。そんな燃えるようなエネルギーのはけ口を求めて、ことの是非も分からないままに行動していたのであろうか?
昨日のNHKスペシャル明治第二集「模倣と独創」を見損なった。番組が終わる頃に気がついた。ちょうどHenry Dyer「大日本」(Dai Nippon, the Britain of the East:A Study in National Evolution、Blackie & son、1905)の言葉を引用していた。筆者が常日頃思うことを100年以上前に書いており、たいへん感銘を受けた。
『人々の生活を豊かにし充実させるためには、西洋の科学と文明を利用すべきだが、同時に、日本人の生活と品性の特質を持ち続け、その個性を失わないようにすべきである。…自らの過去を忘れ、独自の特質を棄ててしまうような国民は、真に偉大な国民となる資格がないし、またなれるものではないのである。』 Henry Dyer、「大日本」より
この言葉はいまの日本と日本人に警告していると考える。我々は、世界に誇れるすばらしい日本の文化・伝統を大切にし、後世に受け継ぐ努力をすべきであろう。それが日本が世界に誇れるアイデンティティとなる。
Henry Dyerは東京大学工学部の前身「工学大学校」の初代校長を務め、日本の工学教育制度の生みの親とも言える英国人である。弱冠24歳で選ばれて日本に赴任し初代都検(実質の校長)を務め10年間日本に滞在した。
戦後の教育を受け、高度経済成長の時代に育った世代は、アメリカの3S政策の洗礼を受けたのは事実だ、といえるだろう。このことについては別の機会に書きたい。
いまは、私もその政策の波の中にいたが、けっして染まってはいないとだけ言っておこう(笑)
「日本国の刷新・再生」―21世紀研究会―(読者参加型)の中にあるキャサリン・クーの記事、3S政策が参考になる。
Glass Ceilingという言葉がある。天井の向こうに青い空が見えているのに見えないガラスがあってそれ以上は近づけない。人と人の間にも透明のガラスがあって握手をしたくてもできない。お互いの顔が見えているのに。見えない障壁というのがある。アメリカの地域によって言葉の意味が違うことがあるが、マイノリティや女性に、目に見えない差別とキャリアの限界があることを指してglass ceilingといっている。
生まれ育ちや身分の上下なしに、だれでも平等に夢を追いかけ実現できるチャンスがアメリカ社会の中にあることは事実である。しかし、平等かというと、日本人が考える平等という概念とは違うように思う。アメリカでいう平等は、「法の下に平等」だということである。一般社会においては実に多くの偏見と差別が入り混じった不平等がある。だからこそ、法律に照らして基本的人権を守り、国民すべての公平さを確保しようとしているのだと思う。
以下の写真は、TV録画画面からキャプチャーしたもので、著作権はNHKほかの原著作者にあります。複製・再配布はできません。
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ヒトラー政権下でのベルリンオリンピック大会。。日本は世界における存在感を高めるために、早稲田大学のサッカーチームを参加させることを決定した。当時、世界はおろか日本国内においてさえ対校試合をする機会さえなかった無名のチームが、忍び寄る軍国主義国家の威信を背負って世界の舞台で戦うことになった。選手のひとり、堀江はロンドンで発行されたガイドブックを読み、みんなで研究しながら対策を練った。しかし、素人ともいえるチームに勝つための妙案があるわけではなかった。初戦でぶつかるスウェーデンチームは優勝候補の強豪である。平均身長185cmの選手たちに、小柄な日本人選手がどう立ち向かえばよいのか。ただ、切れのいい小回りを駆使したショートパス戦法で対抗するしかないと思い定め、その練習にあけくれる。
「そんなことがあったんだ。日本人ってすごいなぁ……」と感心するようなことをこの年になって知ったというのが多い。単にわたしの勉強不足に過ぎないのかもしれないが。ただ、「日本人は歴史を知らない」といったのは、アメリカのビジネスマンたちである。ひとりではなく何人もの人からそんな話を聞いた。もちろん、あるときから私自身も意識してその話を持ち出して聞くようにした。最初の頃はショックであった。自分のことを指摘されているのかとも思った。海外生活をすると自己嫌悪に陥るようなことにも気づく。そのひとつが、「日本人でありながら、日本のこと日本人のこと、歴史・文化・風土にいろんな行事、仏教・神道・禅、歌舞伎に能楽、浄瑠璃、茶道や華道などなど……。英語以前に日本語で説明することさえままならないことに気づくでしょう。説明をもとめられているというより、あいては素朴に質問しているだけなのに、どういっていいのか分からず口をパクパク……と恥ずかしい思いをいやというほどしたものである。これほど自己嫌悪に陥ることはなかった。若いセクレタリーに”I hate myself”と変な英語で説明しようとすると、"You have mental problem"といったかどうか忘れたが、とにかく「自分を憎むということは精神的におかしいことだわ」といいたかったんだろうと解釈して、ますます自己嫌悪に陥った思い出がある。いまは、「思い出」となって懐かしくはあるが。
先週のNHK番組「その時歴史は」で放送された「奇跡の逆転」を見た。今から72年前のベルリンオリンピック大会で日本の弱小サッカーチームが優勝候補のスウェーデンを破った歴史に残る一戦である。当時、ヨーロッパで大きな話題となり日本の存在感を世界に示したものである。そんな歴史的事件とも言うべきことを、今日の多くの日本人は知らない。なぜなのか?番組では、「戦後GHQがアメリカの人気スポーツである野球を奨励したから……」と言葉を濁したような言い方をしていたのが気になった。私も、この奇跡の逆転をどこかで聞いたような気もするが知らなかったというのが正直なところである。すくなくとも小学校から大学までの教育課程の中で習った記憶はない。同じ戦前の話で、野球の沢村投手の伝説的な話はよく耳にしたが。