今蘇る 日本のDNA
今蘇る 日本のDNA
かつて“奇跡”と呼ばれた国があった。戦争によって多くの貴重な命を失い、国土は焦土と化しながら、生き残った男達はわずかな年月で、世界有数の経済大国を築き上げた。
不況、インフレ、労働争議、貿易摩擦、円高――男達は次々と押し寄せる荒波に耐えながら、人を育て、モノを作り、それを世界中に売って歩いた。我が“ニッポン”はそうして出来上がった国だ。
平成不況に疲れ切った今の経営者は、「あの頃は、時代が良かったんだ」と冷笑する。しかし、松下幸之助は、井深大は、本田宗一郎は、「良い時代」に居合わせただけだろうか。否、彼らはこう言うに違いない。
「時代が良かったわけじゃない。自分達がやれることをしただけだ」
東京オリンピックの前景気で沸き立ったニッポンは、当のオリンピックを迎えた1964年には、不況に転じていた。この年の上期、松下電器産業は減収減益。より深刻だったのは系列の販売店で、多くが赤字に転落した。
既に会長に退いていた松下幸之助氏は、全国販売会社代理店社長懇談会を開催する。世に言う「熱海会談」である。当初、糾弾会の様相を呈していたこの会議で、69歳の幸之助氏は3日間、壇上に立ち続け、ついには販売店の気持ちを一つにまとめてみせた。
61年、当時の通商産業省は、ニッポンの産業保護を名目に「特定産業振興臨時特別措置法」(特振法)の制定に向け動き出した。既存メーカーの整理統合が主眼だったが、法律には新規参入の制限という一条があった。
二輪車を手掛けてきた本田宗一郎氏にとって、自動車への進出は悲願。通産省に乗り込み、机を叩いて官僚と戦った。その一方で、開発チームの尻を叩き、63年には同社初の自動車を世に出した。同じ年、特振法は上程されたものの成立せず、廃案となった。
61年は、ニッポンの電機メーカー各社がカラーテレビを一斉に発売した年でもある。しかし、白黒テレビの雄、ソニーはカラーテレビで出遅れた。天才技術者と称された井深大氏が、クロマトロン方式という高度な技術にこだわったからだ。
クロマトロン方式のカラーテレビは64年に完成するが、生産性の低さから大赤字を垂れ流すことになる。
「責任を取る」。こう語った井深氏は、クロマトロン方式を断念すると同時に、より高度な新方式への挑戦を表明した。68年に発表されたトリニトロン方式は、クロマトロンの悲劇に挫けなかった井深氏の、不屈の精神が生んだものと言っていい。
ベールをぬぐい去った、等身大の三人から見えてくるのは、自らを信じ、苦難に挑戦し続ける「意志」の存在だ。その意志は、現代の経営者にとって、「ニッポンのDNA」と呼べるものではないだろうか。
今、我々は素晴らしき先達に恥じない生き方をしているか?