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幸せのヒント「疑うか、傷つく覚悟か」

武田鉄矢の「贈る言葉」のなかに、こんな一節がある。


『信じられぬと 嘆くよりも
人を信じて 傷つくほうがいい』

家族でアメリカ生活をしていたとき、子供たちに言ったことがある。
「見ず知らずの人を最初からすべてを信じてはいけない。」

無心なこどもの誘拐事件や、若い女性を狙った切り裂きジャックの連続殺人事件などがあった頃である。NY5番街を歩いていて、旅行者を装った通行人に声をかけられ、油断した隙に財布を掏られそうになったり、夜9時頃に暗い街路でホールドアップさせられたことなどもあった。


そんな社会的背景があって、子供たちには気をつけるように言った。自分にいつどんな危害が及ぶかもわからないから、万が一にもそういうことのないように、怪しそうな人が近づいてきたら、この人はどういう意図で自分に近づいてきたのかを疑って見ることだと教えた記憶がある。

しかし、「人を疑え!」とは決して言っていないが、言葉足らずだったかもしれない。
まず自分を信じ、そして相手を信じる心が大切だと仕事上では言ったりしたが、子供たちにはその心を教えていなかったとしたら大きな悔いが残る。

歌の文句にあるように、疑うよりも、「人を信じて、傷つくほうがいい」というのは、大方の日本人のこころであり、先人の教えだと思う。そうでないと村社会の中では生きてこれなかった。だが、弱肉強食の資本主義社会では、「それは甘い!」といわれるのかもしれないが、私は「信じるこころ」を大切にしたい。

自分に危害を及ぼされないために疑うこと、世の中に氾濫する情報を鵜呑みにせず、本当にそれは事実かを自分で確かめることは大切である。そのことと、自分が大切に思う人のことを疑うのとは、疑うことの意味が違う。後者は、猜疑心であり、ありもしないことをあるかのように思ったりして、いわゆる「疑心暗鬼を生ず」ということになる。

件の歌の一節に対して、Webであるひとが次のように解説していた。


人を疑うことはイヤなものです
ましてや、自分にとって大切な人のことは
人を疑ったままつきあいを続けると
つきあいを楽しむことは難しいでしょう

人を疑うことはダマされてひどい目にあわないために役立つことです。
でもふつうは、ある程度の注意をしておけば、
必要以上に疑わないほうがいいのでしょう。

信じられなくても、「信じたい人」がいます。
自分が信じたい人に対しては、「裏切られてもいいから信じよう」、
「この人を疑うよりは傷ついたほうがいい」、
「この人を信じられる自分でありたい」
のように思えることもあるのではないでしょうか。

たとえ裏切られたとしても、そういう覚悟があれば、
それほど心が傷つくこともないような気がします。


「人を疑うことはイヤなもの」にとどまらず、それは醜い心でもある。自分に危害が及ぶこともないのに、噂を聞いて、自分で確かめることもせずに人を疑うのは、それはそのひとの心が歪んでいることで、醜いことだと思う。疑われたら、疑ったひとと言い合っても何の解決にもならないものでもある。誹謗中傷は、あくまでも個人の感情の問題であるが、それがために揉め事に発展するのは、実世界でも仮想世界でも事情は同じである。