≪ 日野原流 健康長寿の心得 | Main | 畝傍高校 ≫

1960年代の東京

丸の内私 が入社したのは1969年4月1日。新人教育、工場実習、そしてSE教育を受けたあと配属された職場が、情報処理営業本部システム部第一システム課だった と記憶する。当時のNK部長、NY課長配下にいくつかの班があった。私はIK班に所属し、直属の上司がSAさん、HYさんだった。諸先輩から教えられたこ とはたくさんあり、新米の社会人として進むべき道を示していただいた。この件についてはOB会ホームページに書く。

丸の内の焼き芋

社会人として最初の勤務場所は丸の内仲通りに面したオフィスビルの8階だった。先日、「1960年代の東京 路面電車が走る水の都の記憶」で知ったのだが、入社する8年前には丸の内に焼きいもを売りにくる人がいた。

写真は、暮れの仕事納めの日に撮影焼き芋された三菱3号館(現東京国際フォラム)前の光景である。職場の仲間たちに頼まれたからか、それとも自分が食べたいからか、一人の女性が急ぎ足で焼き芋に向かう。のどかで平和な一日を感じさせてくれる一枚ではないか。

この頃から高度経済成長まっしぐらで丸の内の昼間人口が増え続け、レンガ作りのビルも建て替えられていったのだろう。私が配属されたときには、のどかな丸の内の風景はなかった。私が勤めた会社のオフィスは、週刊誌で「丸の内の不夜城」とさえ呼ばれるようになっていた。

蒲田駅東口の風景

蒲田入社の翌年、1970年にSEの研究開発拠点となるシステムラボラトリが竣工した。そのときから遡ること9年、1961年1月1日に池田信氏が撮影されたJR(当時は国鉄)蒲田 駅東口の写真だ。じつに広々としているではないか。

もちろん私はそういう時代は知らない。70年には近代的な駅ビルが建っており、東口にも西口にもビルが 立ち並んでいた。1960年代は、皇太子ご成婚のあと、東京オリンピックに熱狂し、三種の神器が家庭に普及、団塊世代が大量の労働力を提供した時代で、日本が飛躍的に豊かになる礎がつくられた時だったのだろう。私は奈良県の片田舎で行動半径4KMの生活を卒業し、大阪で学生生活を始めた時代だったから、東京がたった10年間で劇的に変貌したことは知らなかった。

東洋のベニス~東京~

池田氏が撮影した2万数千枚の写真の中から選ばれた500枚を収録して出版されたのが「1960年代の東京・・・」だが、高層ビルがないため空が広く見えるのが印象的な写真が多い。40~50年前の東京に戻って住んでみたいと思う人もいることだろう。その写真集の案内に

「東洋のベニスと称えられた水辺の都市空間。未公開の写真2万数千枚から失われた東京が甦る。」

と書いてある。東洋のベニスと呼ばれたことがあるのは驚きである。実は昨夜久しぶりに都心に出かけ、人形町での会合が終わった後、東京駅まで歩いた。その途中に「日本橋」があった。初めてみる「日本橋」であった。欄干や橋げたは昔風の面影があるが、橋の上を高速道路が走っているのには幻滅する。経済至上主義に毒された為政者たちや業者に怒りを覚えるくらいだった。

何十年も前に、東京は「水辺の都市」ではなくなっていたことは知っていた。しかし、あ らためて「お江戸日本橋」を取り巻く環境を目の当たりにすると哀しくなった。東京は住んだこともない土地だから「ふるさとを思う心」はない。「日本の恥」 を感じてしまうのは私だけだろうか?ドブ臭いにおいが漂い、ひとつ隣の永代橋(?)では浮浪者がダンボールを掛け布団にして寝ている・・・そんな光景を目 にしたのは少なからずショックだった。

話が逸れてしまったので、いったん日記として書いておこう。あとで整理してOB会ホームページに投稿しようと思う。

1956年当時の東京地図

人文社発行の古地図がある。昭和31年当時の東京23区の地図をネットで見ることができる。蒲田シスラボ竣工の14年前のものだ。敷地内を電車が走っていた。車両の定期点検用の引込み線だったのだろう。

昭和31年の写真
昭和31年の地図
現在の地図

多摩川

丸子橋

田園調布西口駅舎

青山一丁目

〔出所〕http://showa.mainichi.jp/ikeda1960/2008/05/ik000740.html

※2009年4月23日作成

Post a comment