Glass Ceiling ガラスの天井
Glass Ceilingという言葉がある。天井の向こうに青い空が見えているのに見えないガラスがあってそれ以上は近づけない。人と人の間にも透明のガラスがあって握手をしたくてもできない。お互いの顔が見えているのに。見えない障壁というのがある。アメリカの地域によって言葉の意味が違うことがあるが、マイノリティや女性に、目に見えない差別とキャリアの限界があることを指してglass ceilingといっている。
生まれ育ちや身分の上下なしに、だれでも平等に夢を追いかけ実現できるチャンスがアメリカ社会の中にあることは事実である。しかし、平等かというと、日本人が考える平等という概念とは違うように思う。アメリカでいう平等は、「法の下に平等」だということである。一般社会においては実に多くの偏見と差別が入り混じった不平等がある。だからこそ、法律に照らして基本的人権を守り、国民すべての公平さを確保しようとしているのだと思う。
前置きが長くなったが、アメリカ人の間に壁があるということを先ず言いたい。日本人の間にも、土地柄によって壁があるのとおなじである。したがって、当然のことながらアメリカ人と日本人の間にも壁があるといえるが、「アメリカ人」と「日本人」という言い方に抵抗がある。それはたんなる国籍の違いを言っているだけなら、glass ceilingのような壁とは意味がちがうのではないか。
日本人という同一民族の既成概念が、日本人と何々人という対比の仕方で物事を見てしまうことが多いように思う。アメリカ人といったときに、その人はアフリカ系アメリカ人か、ヒスパニック系アメリカ人か、それともアイリッシュ系か、アングロサクソン系か、ユダヤ系か......そしてまた、サンフランシスカンかニューヨーカーか、それともボストニアンか......といった具合に個別の歴史・文化をもった個人としてのアメリカ人との対比で考えるべきではないだろうか?ステレオタイプとしてのアメリカ人をこうだと決め付けるのは難しく誤解を招くことが多い。
私はアメリカ西海岸(シリコンバレー)での生活が長いが、この地で「壁」を感じることは、日本にいたときに思っていたよりも少なかった。その壁を「疎外感」とか「孤立感」というように解釈すると、日本の中(とくに都会)のほうがカリフォルニアよりも壁があると思う。
時間がなくなったので、このつづきは次回に書くことにします。