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遥 洋子というタレントをご存知だろうか。彼女が、鋭い「成功の法則」を書いていた。「成功する人とは、その”責任”を忘れない人」であると。

日経ビジネスのNBonlineで記事を書くエッセイストでもあることを知った。昨日の”読者が選ぶ注目の記事」一位が、彼女が書いた記事、「自分にはチャンスが来ないと思ったとき」であった。

宝塚歌劇公園直後に招いたスターにインタビューしたときのことを書いている。「夢を売る」職業の人に、どこまで”本音”をきけるかという課題がインタビュアーにあるが、彼女が聞き出したスターの答えが印象的である。

そのスターは初日の舞台挨拶でこう語ったという。

「夢がたとえ叶わなくても、そこに努力する道のりこそが、夢」

夢が叶ったその日に”叶わなくても”という表現をするスターはめずらしく、その後の取材でも「自分にはチャンスが来ないかもしれないと思った時期がある」と語っていたという。

なぜそこまで頑張れたのですか?と聞いた、その答えが、

「自分が宝塚に合格したとき、不合格になって夢を断念した友達がたくさんいる。その人たちの悔しさを忘れるわけにはいかない。」

20年近い過去の出来事がいまだにモチベーションになっていることに、遥洋子は驚いたという。

たしかに、このスターが20年もの長きにわたって抱いてきた思い、夢を断念した友達の悔しさを考えて、苦しい時期を乗り越えてきた、そういえる人は何人いるだろうか?

遥洋子はエッセイの結びにこう書いている。

「そもそも、競争社会なのである。宝塚のみならず我々の社会だって。

 自分は目標の会社に入社できたかもしれないが、その背後には多くの断念組がいたはずだ。出世を夢見たものの、幾度の自信喪失を体験しつつ働いてきたことだろう。そしていつしか感謝も忘れ、夢を断念することの痛みにも慣れ、絶望の暗闇に目をつぶって働いてはいないだろうか。

 どんな職業であれ、自分が誰かから選ばれた人間であることに間違いはない。

 成功する人とは、その“責任”を忘れない人なのかもしれない。」

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わたしは、この詩人のことはほとんど知らなかった。29歳で早世したキリスト教信者であったということすら知らなかった。先日、ネットでの友人が教えてくれた、八木重吉の詩集があるホームページを覗いて、一瞬のうちに、こころを揺すぶられた。

八木重吉  「秋の瞳」        序

  私は、友が無くては、耐へられぬのです。
  しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、
  これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。
  そして、私を、あなたの友にしてください。

私の目に最初にとびこんできた、この序を読んで、胸が熱くなる思いを抱いた。

「友が無くては、耐へられぬのです」と詩人はいう。キリスト教の隣人愛は言葉として知っている。隣人を、友を愛しなさいということだと思っていた。

しかし、人間は生まれながらにして愛を求めている孤独な魂なのだ。友なくして生きていけない存在なのだ。あぁ、これが第三の本能「群れる本能」なのだと、詩人は気づかせてくれる。友を求める人がいるから、友を愛しなさいといっているのだと思った。

そして、「貧しい詩」という詩人の謙虚さが切々と胸に迫る。読んでくれる人に捧げ、感謝するこころが伝わってくる。彼が捧げる詩を読みたくなる序である。

その期待は応えられる。まだ十数編しか読んでいないが、それだけで、こうして何かを私に書かせようとする静かな力がある。


「息をころせ、あかんぼが 空をみる」

最初の詩である。静謐な風景、広く青い空、あかんぼの憧れと無限の可能性を暗示する。しかし、詩人には・・・。そんな哀しみも伝わってくる。

「わたしは わたしは 白鳥となり・・・  おほぞらを かけり・・・」 「わたしは ひとりぼつちで描くのだ、   これは ひろい空 しづかな空・・・」

といううたが詩人のこころを表現する。

「鉛のなかを  ちようちよが とんでゆく」

なんという表現なのだろう!テーマは重苦しさや苦しみ哀しみであるのに、それをたんたんと歌に詠み、読むものには重苦しさを微塵も感じさせない。

静謐な美しい自然の風景を思い描かせ、読むものに生きる希望と喜びを感じさせてくれる。


わたしの友人が、八木重吉の詩を好きなのがよくわかる気がした。わたしとは、受け取り方が違うだろうが、万人のこころに響く八木重吉の魂が、いまも生きているのだろう。

わたしも八木重吉の詩にふれ、自分の魂の声に耳を傾けてみたいと思う。

今日は多くの企業で入社式が行われた。我が家の末娘も某自動車メーカの入社式に臨んだ。やれやれである。

テレビの入社式報道で娘が映るかも知れないと妻が見ようとしていたら、電話があって肝心の場面を見落としたとぼやいていた。娘は娘で、新聞に載った写真では、自分の頭しか映っていなかったと残念がっていた。