八木重吉との出会い
わたしは、この詩人のことはほとんど知らなかった。29歳で早世したキリスト教信者であったということすら知らなかった。先日、ネットでの友人が教えてくれた、八木重吉の詩集があるホームページを覗いて、一瞬のうちに、こころを揺すぶられた。
八木重吉 「秋の瞳」 序私は、友が無くては、耐へられぬのです。
しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、
これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。
そして、私を、あなたの友にしてください。
私の目に最初にとびこんできた、この序を読んで、胸が熱くなる思いを抱いた。
「友が無くては、耐へられぬのです」と詩人はいう。キリスト教の隣人愛は言葉として知っている。隣人を、友を愛しなさいということだと思っていた。
しかし、人間は生まれながらにして愛を求めている孤独な魂なのだ。友なくして生きていけない存在なのだ。あぁ、これが第三の本能「群れる本能」なのだと、詩人は気づかせてくれる。友を求める人がいるから、友を愛しなさいといっているのだと思った。
そして、「貧しい詩」という詩人の謙虚さが切々と胸に迫る。読んでくれる人に捧げ、感謝するこころが伝わってくる。彼が捧げる詩を読みたくなる序である。
その期待は応えられる。まだ十数編しか読んでいないが、それだけで、こうして何かを私に書かせようとする静かな力がある。
「息をころせ、あかんぼが 空をみる」
最初の詩である。静謐な風景、広く青い空、あかんぼの憧れと無限の可能性を暗示する。しかし、詩人には・・・。そんな哀しみも伝わってくる。
「わたしは わたしは 白鳥となり・・・ おほぞらを かけり・・・」 「わたしは ひとりぼつちで描くのだ、 これは ひろい空 しづかな空・・・」
といううたが詩人のこころを表現する。
「鉛のなかを ちようちよが とんでゆく」
なんという表現なのだろう!テーマは重苦しさや苦しみ哀しみであるのに、それをたんたんと歌に詠み、読むものには重苦しさを微塵も感じさせない。
静謐な美しい自然の風景を思い描かせ、読むものに生きる希望と喜びを感じさせてくれる。
わたしの友人が、八木重吉の詩を好きなのがよくわかる気がした。わたしとは、受け取り方が違うだろうが、万人のこころに響く八木重吉の魂が、いまも生きているのだろう。
わたしも八木重吉の詩にふれ、自分の魂の声に耳を傾けてみたいと思う。