入社式に思う「就職」と「就社」
今日は多くの企業で入社式が行われた。我が家の末娘も某自動車メーカの入社式に臨んだ。やれやれである。
テレビの入社式報道で娘が映るかも知れないと妻が見ようとしていたら、電話があって肝心の場面を見落としたとぼやいていた。娘は娘で、新聞に載った写真では、自分の頭しか映っていなかったと残念がっていた。
朝日新聞のニュースタイトルは、「入社式、不祥事企業「おわび」のオンパレード」である。これも日本の特徴でしょうね。ある意味「おわび」でことは済むようなところがある。
やっぱりここは日本なんだなぁと思う。入社式がニュースになるんですから。
長女はアメリカで面接を受け、外資系企業に就職したが、外資系では随時必要な人を採用しているので、日本企業のような入社式はない。導入教育はあるが、専門能力開発には世界レベルで教育・訓練の場と適切なコースが準備されており、社員は必要に応じて選択する。長女は、一年間現場での仕事のノウハウを学び、その経験をもとに訓練すべきコースを選択して、シリコンバレーとマレーシアでそれぞれ二週間ずつ訓練を受けた。
じつはこの長女、末娘が入社した企業に就職するかどうかで悩んで、結局断った。4回にも渡る就職試験・面接をかいくぐって合格した。最後の役員との面接はボストンであった。たまたまそのとき一時帰国していたので、日本で面接を受けられないかと聞いたら、「役員の都合がつかない。ボストン往復旅費と滞在費を会社で負担する」とのことであった。なんと太っ腹な会社なんだと感心した。
そんな経緯があるにもかかわらず、長女は悩んだ末に、入社を断った。なぜなの?妻にとっては理解に苦しむことだった。
長女の話によると、人事課長が、「入社後15年間はあなたの面倒を見ます。会社の風土に合うように鍛え上げます」と言明したとのこと。私は、さすが世界に誇る日本企業だと思った。しかし、長女はそのことに納得できなかったようである。
長女はいう。「面倒見てもらうために就職するわけではない。その会社の色に染まるために15年間も時間を費やしたくない。やりたい仕事に就けるなら、その会社に就職したいが、入社してから出ないと配属先が分からないということに納得できない。」 これも一理ある。「うん、そうだな!」と私はうなずく。妻も、長女の意思を尊重した。
その長女が断った会社に、末娘は手放しで喜んで入社した。これは一体どういうことなのかと父親として考えてみた。二人とも、紛れもなくわたしと妻の子供である。似たような遺伝子を受け継いでいるはずなのに、考え方に大きな違いがある。なぜか?
私の答えは、教育と友人関係の違いが、それぞれの考え方、価値観の違いに影響したとしか思えない。末娘は、米国で生まれたが小学校から日本で、ごく普通の日本の子供として育った。しかし、長女は中学校は日本だったが、それ以外は就職するまでアメリカで育ち、アメリカで教育を受けた。友達のほとんどがアメリカで知り合い、いまは世界に散らばっている。
そうした教育と育った環境の違いが、考え方・価値観の形成に大きく影響しているのだと思う。それは、私自身の持論である「人間は環境に左右される生き物である」ことの証左でもある。
私の長女は、平均的な日本の女性とはいえないだろう。就職はあくまで就職で、就社ではないと思っている。世間で認知された企業に入社できたことを素直に喜んでいる末娘のほうが、世間の常識にかなっているだろう。そんな末娘でも、大学で学んだ研究成果を生かせる期待をもって入社している。競争会社への就職も内定していて、迷いに迷っての選択でもあった。
私の娘たちの考え方が特殊だと思ってはいない。特殊だと思う親たちは時代の変化に気づいていないだけだと思う。就社ではなく、文字通りの「就職」を求める若者が増えていくだろう。自分のキャリアを追求する若者が勝ち残っていく時代なのではないか。しかし、それがすべての若者にとって「幸せな生き方」だとは思わないが。