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・・・ところが、新しい生活に入る計画は挫折した。諦めたわけではなかったが、そのときの早期退職は撤回した。当時高校生だった末娘が受験勉強中で、進学のときの調書に「父の職業=無職」と書くことに家族の感情的抵抗もあった。いわれるまで全く気づかなかった。あぁ、ここは日本だった!

もうひとつ勤務先の人材開発部からグローバルビジネスに携わる人たちを対象にした教材開発を頼まれていた。それを済ませてからにしようとおもった。また55歳に達すると企業の健康保険が退職後も加入継続できると聞き、それを待つという功利的な理由もあった。

ある友人がコミュニティで、「100万人のキャンドルナイトを紹介していた。今日は夏至・・・。世界で共通の日を選んで、5年l前に「でんきを消してスローな夜を」という呼びかけで始まったそうである。アメリカでは「LOHAS」が話題になっていたときである。その後、日本でも、「ロハス」という言葉は普及したが、ロハスな生活が定着しているとはいえないだろう。

辞職願を書いて、朝出かけるときに「今日提出するから・・・」と玄関先で妻に言った。その一年ほど前からは、家族にも退職する計画を話してきた。もちろんその後の家族の生活を支える金銭面・保険面での対策は講じて、その目処も立っていた。素人ながらFinancial Plannerの役割をみずから担って、生涯設計をした。

今日がボウリングの日になっていることを知った。日本最初のボウリング場は、文久元年(1861年)6月22日、オランダ人によって長崎に作られたそうである。
社団法人 日本ボウリング場協会
ボウリングWikipedia
ボウリング豆知識
ボウリングの日のウェブサイト6-22.jpもある。

私の反省

いま振り返ってみると、そういう生き方を知ったときは、もう40近くになっていたこともあるが、思ったようにはいかなかった。家族Family をもつというのは、結婚することではなく、子供を生み育てて幸せな家庭を作ることである。そのために生きる・・・ということだが、私の40代は仕事のために生きた・・・という大きな反省がある。

とくに40代後半は、二回目の海外駐在で、海外企業のリストラを含めた事業経営に携わり、月の半分は出張でホテル暮らしの生活が続いた。高校生になった長女と二人暮らしで、妻の中学生の子供二人は日本・・・という家族の生き別れ(!?)だった。とても家族のために生きたとはいえなかった。

そして、50代・・・。社会のために生きたとはいえない。前半は海外生活で、疲弊した利益のでない事業からの撤退やベンチャー資金を確保してMBO・売却したり、会社を清算したりといったリストラ(構造改革)の嵐のなかを走り、とても社会貢献などできる余裕はなかった。ささやかな寄付をするくらいで、社会のために生きるという意味すら分からず、怒涛のごとく時は過ぎた。

燃え尽き症候群

21世紀になって、嵐が収まる気配がでてきた。そして日本に軸足を移すようになった。このときも人生の大きな転機であったが、やはり「人生の棚卸」という意識はなく、そういえるようなことはしなかった。正直言って、Exhausted・・・気力・体力が枯渇したようで、職業人生で学びたいこともなくなった思いだった。20年前にシリコンバレーの仲間がよく言っていた「燃え尽き症候群」だったのかもしれない。

それもあるだろうが、日本に戻ったときに辞職、早期退職をする計画だった。それは、シリコンバレーの仲間たちの生きる姿勢を学んだからでもある。かれらの人生のタイムフレームからはずれてしまったが、むかしは人生50年と思っていたのが、人生70年と考えれば決して遅くはない・・・と思う。

20世紀末に八ヶ岳南麓に土地を買った。山小屋を建て、晴耕雨読の生活を夢見るようになった。それが私の口癖になった。日本に戻ってから週末には住宅展示場にでかけ、住林、デンマークハウス、積水ハス、三井ハウスなどに提案を依頼した。住林とは週一回の頻度で概念設計の打ち合わせをした。しかし、契約・発注の手前で急転した。それが5年半前のことである。


人生はキャリアだけではないことを学んだのは海外で知り合った仲間たちからであった。むかしブログにもどこかで書いたが、シリコンバレーでITや知識産業で働くひとたちは、むちゃくちゃに働く。セクレタリーやクラークなど日々の定常的な仕事もきちんとこなしていかなければ行かない人や工場のライン勤務の人は、9 to 5の規則的な生活をくりかえす。そういう人たちとは別にエグゼンプトエンプロイーと呼ばれる人のなかには、たとえば真夜中に目が覚めてふとアイデアや解決策を着想すると、オフィスにでかけて24時間寝食を忘れて没頭する人がいた。

その一方で、週末は誰かの家に集まって、バーベキューをしたりプールをしたり泳いだり、あるいはみんなでミュージカルを見に行ったり、ウィークデイでも昼は公園で軽い食事をして、バレーボールやフリスビーを楽しむ・・・。みんな人生をエンジョイしていた。
そういう人たち、研究者、技術者、営業やマーケティングなど職種を問わずに、多くの人が共通して口にしていたことがある。

「30代までは一所懸命働いて財を成し、40までに家族を持ちたい。40代は家族のために生き、できれば50代には社会のために生きたい・・・。」

この考え方というか生き方に感じ入った。そして、それが私のその後の生き方に影響を与えた。その意味では、それまでの考え方の棚卸をしたということかもしれない。


いま振り返ってみると、そういう生き方を知ったときは、もう40近くになっていたこともあるが、思ったようにはいかなかった。家族Family をもつというのは、結婚することではなく、子供を生み育てて幸せな家庭を作ることである。そのために生きる・・・ということだが、私の40代は仕事のために生きた・・・という大きな反省がある。
(つづく)

ある友人が言っていた・・・「どこかで一度人生の棚卸しをしないといけないじゃないか?」 この言葉に触発されて思う。ひとは意識するとしないに関わらず、何度か棚卸しをしながら生きているのではないか。青春時代の苦い挫折、はじめて社会に出たとき、結婚し子供ができたとき、身内や親しい人が亡くなったとき、理由や契機は人それぞれである。私の場合を考えてみた。

人生の転機

私が人生の棚卸をしたのはいつだろうか?と思い起こす。就職したときは、そういう意識はまったくなかったし、棚卸しをするほど生きてはいなかった。結婚し子供ができたときだろうか。それも違う。未来に向けて家庭と仕事の世界を切り開いているときだった。過去を振り返ることはなかった。

最初の「人生の棚卸」のようなことがあったのは、30代半ばのとき海外に赴任したときだろうか?家族で海外に移り住み、人間関係も仕事もゼロから再出発というのは、生活と仕事の大きな環境変化であった。過去何十年かの間に身についた日本での生活習慣、人間関係などから離れて、これからどうするかを考えなければいけなかった。

しかし、それは「人生の棚卸」ではなかったと思う。私にとっては、未知のキャリアの始まりだった。生活習慣も仕事も人間関係も変わったが、過去のそれらを棚卸したわけではなく、またそういう意識もなかった。キャリアの棚卸だと、「これまでの職業人生を振り返り、どのような仕事や職務を経験し、その過程でどのようなスキル・知識をどの程度習得したのかを整理すること」ということができる。それもしなかった。ただ、明日への道を歩き始めただけだった。人生の転機だったことは確かであった。

人生はキャリアだけではない

キャリアは人生の一要素にすぎないが、日本をはじめ経済至上主義的な諸国の多くの人たちにとっては、キャリアが人生の大事でその大半を占めていると無意識に思い、それが生きる道の主軸になっているようだ。私も例外ではなかったが、私の世代の多くのひとたちは「キャリア」という意識はなかった。社会に出てから、運も良かったのだが、月給は3年後には4倍近くに増えた時代だった。

最初は無我夢中だが、好きな仕事を好きなように自由にやれる組織風土のなかで若いエネルギーを注ぎ込むことができた。しかも、仕事は半分、残りは遊び・・・。先輩に連れられて飲みに行く、毎週末には、山に海に遊び、旅に出て、テニスやヨットも楽しむことができた。海外旅行は、費用的にも一年分の給料が必要で、夢の時代ではあったが・・・。

人生は、キャリアだけではない。職業に就くことは、収入を得て生活の基盤を安定させ、家族に安心と安全と快適さを与えるために必要であり、それは生涯続くことである。キャリアは、より高い報酬と地位と名誉のために追い求めるものかもしれないが、人生はそれだけではない。

SNSのなかで、メンバーのTさんが「ありえない話」について貴重な意見を書いてくださった。少子時代に、「少人数学級はありえない」という指摘である。Tさんは、「・・・一人の子どもに二人の親と4人の祖父母と結婚していないおばさん・おじさんが関わることになります。子どもに関わる親が多くなり、切磋琢磨ができない、ひ弱で自己中心の子どもになってしまいます。」という。これは重要な指摘である。わたしも同感である。核家族化は昭和の団塊世代の特徴であったが、その傾向と未婚の増大が、少子時代における子供たちに与える影響という視点に気づかされた。

これは大きな変化ですね。核家族化が進む前は、結婚している大叔父、大叔母、おじさん、おばさんがいっぱいいたが、みんな自分の家族をもっていた。盆、暮れの薮入りや、年季奉公で祖父母の兄弟姉妹の家族、父母の兄弟姉妹の家族が一堂に会す・・・というのはなくなってしまいましたね。そういうときも、従兄弟や叉従兄弟たち、子供たちがあつまって遊んだものですね。

小学校、中学校も、40〜50人学級が多かった。そのなかで十数人のグループがいくつかできて互いに交流したり、別のグループに参加したり・・・と子供たちは、十人十色の友達を知り、一緒に遊び学んだ。それが、子供たち同士の刺激になり、競争もすれば、協調もする。そうして、善悪の判断も学び、人との付き合い方、社会性をを学んでいったんですね。

成人になっても、人が群れる基本単位は、40〜50人または家族だと思いますね。日本でひとつの集落、日常の生活圏というのは、私の田舎では、50家族(軒)前後が多い。寺や神社がひとつあって、それを中心に家が軒を並べている。昔の呼び方で「小字(こあざ)」といった。それが、さらに十数件の「カイト」(漢字は垣内かな?)に分かれていた。

興味深いことに、アメリカやヨーロッパの地方にいくと、ひつの集落は50軒程度のようですね。もちろん寺や神社ではなく、教会が中心にある。人間が群れるときの最適規模が50くらいということでしょうか。

これはビジネスの世界でもいえるのではないかと思いますが、基本単位は3人、30人、300人・・・といわれることが多い。軍隊の組織では、最小単位の分隊は10人くらいからで、旅団は3000人程度で編成される。これらはリーダーの統率が必須であるため、一課や一小隊は30人が適切なのであろう。

互いに刺激しあって、競争し、そして協調する。切磋琢磨する多人数学級が、子供たちには必要なことでしょう。

六本木にある国際文化会館で、琴とバイオリンの三重奏を楽しんだ。日本古来の13弦の琴と、音域を広げるために宮城道雄が発明した17弦の琴とバイオリンである。

演奏曲の筆頭は、もちろんのことながら「春の海」であった。昭和の初めに発表され、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演されて世界的な評価を得た名曲である。

日本人のこころの底に響く琴と花のあるバイオリンの音色は美妙に混ざり合って、静謐さの中にゆったりと、しかし力強い波がうねる海の光景をこころに映し出してくれた。久しぶりに豊かな時間を持つことができた。

この日の第一部の演奏曲は、宵待草、この世の花、荒城の月、おぼろ月夜など、昭和の人間いはなつかしい曲ばかりであった。そのせいだろうか、参加者は年配の方が多く、しかも女性が9割近くを占めていた。

休憩を挟んだ第二部は、タイスの瞑想曲、雨の日の噴水、虹の彼方になど。「虹の彼方に」は、ご存知「オズの魔法使い」のテーマ曲で、アカデミー作曲賞歌曲賞受賞曲である。そして、最後はチャールダーシュCzardas」であった。ハンガリー文化の異国情緒あふれる曲で、日本文化に自由と素直さへの憧れをこめたような曲である。

旧岩崎小彌太庭園を借景に、しとやかな和服とあでやかな洋装、そして琴とバイオリンの織り成す音色に包まれたコンサートホールは、家族的な雰囲気で、こころやすらいだ。